國府津より
大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ
汀鴎
『みづゑ』第四十七
明治42年2月3日
一月から三月頃迄は、寒いのと風の強いのとで旅行に不適當である、家に居てもこの期間は毎年何等の仕事もせずにグヅグヅに過して仕舞ふ、この冬は何處か暖かな處で籠城して少し實のある仕事も爲たい、年々旅行しては半成のまゝになつてゐるスケツチの整理も爲たい、こんな譯から、私は國府津驛一旅店の客となつた。
海岸を選んだのはもう一つ理由がある、私は景色として深山中の湖水が一番好きだ、それに次いては高原、靜流、深林等であるが、それ等は皆天然物である。人間の造つたものとしては宮殿樓閣それぞれ美はしいものがある、古社寺にも壮麗なるものがあるが何故か私は船が一番好きだ、その形は實に曲線美の粹を集めてゐる、た勢一艘海岸の沙上にあるのもよい、二艘三艘前後して並んでゐるのにも趣がある、狹い堀割など-に水も見えぬ迄にゴタゴタ集まつてゐるのも面白く、野中の小川に淋しく漂つてゐるのも捨がたい。
船はその形に於て好もしいばかりでなく、蔭日南の關係に曖昧な點がなく、其變化に強い感じがあつて面白い。濵の夕陽、船の片つらに烈しい日光を受けて、他の半面の際立ちて暗く、沙の上にながく其影を投する時など逃すことの出來ない好個の畫題である。
船はまた他の天然物との調和がよい、水に配して可なるは元よりその處であるが、遠山にもよく樹木にもよく、何處に持つて徃つても調和がよい。私は曾て小松の生へた芝原に一艘の癈船の横はつてゐる景を見たが、四方に水の影も見えぬに拘はらず、少しも不自然でなくよい材料と思つて寫生したことがある。
船に於て欠けてゐるのは色彩である、併し赤や黄や人の視線を惹く烈しい色はないが、决して單純なものでなく、正しき色を出すことは誰れも苦しむのである。
私が船の美につき今でも目先に再現せしむることが出來る忘れがたき二つの景色がある、その一つは岩代檜原湖の岸で、空曇りて風なき秋の朝であつた、まだ色褐せぬ緑の川楊叢り生ふる渚に二艘の小舟がある、一は半は岸に打揚られ半は水に浸つてゐる、他の一は靜かに水に泛んでゐる、對岸の山は全湖面に物凄き迄に暗き影か侵してゐる、一番の鶺鴒が船のあたりを飛廻つて尾を動かしてゐる、空も暗く山も暗く水も暗きその中に雨風に洒された小舟のみ明るく水面に横はつてゐる、その幽邃にして閑寂なる光景は曾て見ざる處であつた。いま一つは、逆井から堅川を船で兩國へ歸つた時で、風やゝ寒き冬の夕暮、西の空は赤々と輝いてゐて、低い地平線には工場の煙りが靉いてゐる、折からの上げ汐に水の面は夕の空を映して淺緑りに光り、タフタフと岸うつ波の音が何となく荒んできこえる、たしか四の橋あたりであつたらう、往き交ふ船の繁き中に、見上るばかりの一艘の親船がゆるゆると明るい西の空に舳を現はした、板子の上に働く船頭の影も黒い、双の手に操る棹も黒い、横はつてゐる帆桂も黒ければ、積重なられた帆綱も黒い、その黒い變化ある輪廓がカッキリと、耀ゆいやうな空に描き出された有樣は恰も影繪を見るやうで、恁ふした處にも棄て難い美のあるものだと深く深く感じたのであつた。
船の話があまり長くなつたが、國府津小田原邊の濱には船が多い、また脊景もわるくはない、私は自分の好める船の研究が出來るのを喜ぶ。
こゝへ來たのは暮の二十八日で、一子正男も學校休みだといふので行を共にした。旅店富士見屋は國府津の村端れで、ハイカラ氣の少しもない親切な家である、二階の西の窓からは箱根の山を越して雪の富士が鮮やかに見える。
翌日は雨、三十日は風が強かつたが天氣もよく暖かなので山登りをした、峰傳ひに二十丁も往つて引返したが、途中には蜜柑畑が多い、日溜りの枯艸の中には松虫艸やら野菊やら蒲英公が咲いてゐる、蔓モドキの實も美はしい、山上から見た海の景色もよい、東、大磯の濱から江の島をかけ、南に大島、西に廻つて眞鶴ケ岬、其上には天城連山が聳えてゐる、この山上からも五六枚のスケツチは出來やう。
三十一日には海岸傳ひに酒匂の方へ往つて見た、松原のよいのがある、うちよする浪はやゝ高いが、海水は透明してゐるからこれも研究の種になる、酒匂川の海に入らんとする處、水は瀞んで湖水のやうになつてゐる、長い洲が出て枯蘆もところどころに茂つてゐる、中景は街道の松原、二三の雅致ある家も見える遠景は箱根で、二子山が行儀よく並んでゐる、一寸大作の出來る位置だと思つた。酒匂橋あたりからの眺望もよい、此邊でも澤山のスケツチは得られるであらう。
夕暮隣家の勝手元で夫婦喧嘩が始まつた、今日の拂ひが出來るとか出來ぬとかそのやうな爭らしい、大晦日といへばかゝる問題のために奔走してゐる人も多からう、何の思ひ煩ふこともなく、子供相手に恁して遊んでゐられるのは幸幅といはねばならぬ、私はこの幸福を生み出すべく過去に何等の努力も爲た覺えはない、さらば何處に向つて感謝の意を致してよいのであらうか、たゞ此の上は出來るだけ世のため人のために身を捧げてわが信する道を進まうと思ふ。
明治四十二年、元旦の華やかなる初日影が紙障を照すころ寐床をいでた、風寒ければ家に在て、山から採り來し草花のいろいろを寫し、そを繪葉書にして親しき友に出した。
年始状は特別扱にして東京に居る時出して仕舞つたから今日は用がない、四五年前迄は東京に居て知人の處へ回禮したのであつたが、四里四方それから郡部をかけて廻ると一週間以上もかゝつて、其の上旅行してゐる人が多く、正月も格別面白くないから一切葉書で御免を蒙ることにした、この葉書も是迄一々何か繪を描いて送つたが、一日に五百枚は描き切れない近年は判を交ぜて用ゐて見たが是でも中々暇がゐるから、來年は何か印刷をしやうと思ふてゐる。
夕方着の汽車で、東京から妻と竹内さんと來るので停車場へ迎へにゆく、竹内さんは三年來土曜日毎に下總から水繪の稽古に來られる熱心な若い婦人である。西の空一點の雲なく、富士の雪は紫色に美しい、寒い日であつた。
二日の朝電車で湯本へゆき、それから女連は俥で、私と正男とは徒歩で宮の下の五段へ往つた、家は堂ヶ島への下り口で木葉隠れの瀧の前にある、早川の崖に建てられて、棟が五つに分れてゐるので五段とよばれてゐるが、宿の名は龍雲館といふので、かねての馴染であるから喜び迎へられた。
直ぐに湯に入る、湯は底倉の大閣湯を五百餘間の樋で直接に引いたもので滾々と溢れて清い、宿の待遇はよく行届いて吾家に居るやうな心持がした。
三日午後から明星ケ丘へ登つた、宿から二三丁渓へ下つて早川を渡り、それから項上迄は一時間はかゝる、妻と竹内さんは半腹から引返した、正男は元氣よく登る、今年十歳の小兒の足としては甚だ頼母しい、山が好きであるからいづれは將來山岳會員の一人となることであらう、羊腸たる細道を辿つて漸く山頂に達した、眺望は極めてよい、背後は駒ヶ岳を始めとして二子山など凸起してゐる、富士も可なり裾迄見える、前は相模灣で國府津小田原は眼下に、酒匂の長橋に電車の往來してゐるのも鮮かに目に入る、風寒ければ久しく居るに耐えて、前の道を下りて夕暮宿へ歸つた、夜は宿の人々と盛にカルタにトランプに賑はしく遊んだ。
明星にて見たる冨士に二三の笠雲が横はつてゐたが。果して四日は雨となつた、窓近き枯木の梢に露は凝つて珠となつてゐる、恰も白梅の蕾のやうで美しい。
五日には宿の前の瀧を寫生した、今年初めての寫生である、私は隨分平素忙しい身の上である、畫筆を手にしなければ原稿紙へ向ふ、尋ねて呉れる人も多いが返事の入用な手紙も毎日十餘通はある、偶には人を訪ふこともあれば用達にも出掛ける、二三日以上都合がつけば何處かへ旅行をする、一般の休日たる日曜日には東京又は程ク谷の研究所へ出ねばならぬ、一年を通じて緩々家族と共に遊ぶといふ日は殆ど只の一日もない、それ故年の首の一週間は夫となり親となつて家族のために閑日月を樂しむことにしてゐる、然し私のやうな貧乏性の人間には何も爲ずにたゞ遊んでゐるといふことは苦痛で耐まらぬ、そこで寒くはあつたが終に繪具箱を擔ぎ出したのである。
宮の下へは秋にも來た事がある、十一月中旬は紅葉の盛りで、パルソンス氏は此下の渓流で土橋を中景として燃ゆるやうな秋の景色を描いた事がある、此紀念すべき土橋は今は殺風景な釣橋に代つてゐる、宮の下の町のほとりから谷を隔てゝ明星ケ岳を見た景色もよい、堂ヶ島底倉あたりの温泉宿も繪になる、早川に沿ふて上るとチヨイチヨイ景色のよい處がある、木賀あたりの渓流は石が大きくて面白い、宮城野邊の流れも雅致がある、進んでは仙石原の景は大きい、杉の林によいのがある、宮の下から二里あまりあるが乙女峠は古來富士を見るに第一の場處としてある。
路を小涌谷にとつて芦の湯方面もよいが、姥子の附近もわるくない、大地獄は物凄く、一面白緑色の地にポポツポツと煙があがつてそこに石の地藏が立つて居るなど淋しい畫が出來やう、春は山櫻もあり夏は杜鵑花もありといへば、宮の下を中心として寫生して歩行いたら一月や二月は畫材に不足はあるまい、私共の泊つてゐる龍雲館の女主人は頗る商賣放れのした人で、四月五月八月は客が込合つて不行届勝だが、他の季節なら宿料など何程でもよいと言ふてゐるから、三脚携帯の客は特別に勉強するやうにと呉々も頼んで置た。
六日午後箱根を出立して、其夜は國府津に、翌日東京へ歸つた。留守の机の上には年賀状が山積されてゐる、其半は繪葉書で、繪葉書の半は肉筆畫である、それはいづれも丹精を籠められたものばかりであるが、磯部氏、丸山氏、技吉氏、藤田氏佐々木氏、三條氏、津雲氏、相田氏、眞野氏等のは酉出でゝ面白い、殊に丸山氏の鶏と來ては、其羽搏きして飛立たんばかりの勢のよさ、今年の活動も想見するに難からずである、印刷では岡野氏、久保田氏、石井氏、山中氏、巖谷氏、西村氏、藤島氏など振つたものであつた、それから夥しくあるのは芋判で、わるい事が流行したものだと今更苦笑せざるを得ない。
九日の夜から雪が降つて十日の朝は三四寸積つてゐた、午後から國府津ヘゆく筈であつたが、水彩畫研究所の日曜日の生徒が十日迄休みとあるをどう間違つたか四五人やつて來た、中には浦和の人も居るので氣の毒だから私の畫室で授業した、それがため再びこの地に來たのは十一日の夜であつた。
空がよく晴れて日が斜めになつた蒲田川崎あたりの殘雪の景色は優れてよかつた、地平線近くの空の色は薄紫になつて、褐色の寒林を後ろに雪に白き藁屋根がちらほら見え、前景の田の面は畦のみ白く、水は夕陽の色か映して五彩を漾はしてゐる、神奈川で日はくれたが、車燈影暗くして書物をよむことも出來ない。東京へ一週間に一度宛歸るとすると、是から二十余回この間を汽車の客とならねばならぬ、さて鐵道院の方の設備は漸々進んで來たが、乗客の鐵道公徳がさつぱり進まぬは遣憾である、今乗つてゐる客車は禁煙車で車外は勿論車内に二箇處迄も掲示がある、それにも係はらず商人らしき老人が煙管をとり出した、やがて傍の洋服の紳士がその老人から火を借りた、暫らくすると向ふの隅にゐた警官がマツチを擦り出した、是では禁煙車の實が舉らない。
初めて國府津に往つた時に、新橋で今汽車が出やうとする際慌しく乗込んだ子供連れの夫人がある、赤帽四五人其運んで來た手荷物は實に二十餘個の多數で、六人分の座席へ山のやうに積上げた、饒舌な婦人であつたゝめ今度新築とかの二の宮の別荘へ往くのであるといふことが判つたが、其持物は何れも別荘用で細紐からげの風呂敷へさへ包まぬ箱などもあつて不體裁を極めた幸ひに乗客が少なかつたからよかつたが、夫でも多少の迷惑は蒙つたのであつた、長々と寝て三人分を占領したり、革鞄を座らせて人間を立たせて置くのは恁ふいふ連中の仕業である。
同じく歸りの汽車に横濱で四五人の一組が乗込んだ、空席のないのを相手が婦人だけに皆々無理をしてドウヤラ詰込んだが時間表で見ると此前後三十分と間を置かぬ時刻に新橋行の汽車がある、特發の列車があるのだから急がぬ人はそれに乗つたらよい、是等も鐵道公徳を無視したものと言ひたい、尤も此婦人連は何か急用が起つたといふて満室を驚かす叫聲と共に發車前に一同下りて仕舞つた。
そんな事を思つてゐるうちに汽車は國府津に着いた、途中茅ケ崎あたり迄は闍の中に殘雪を見たが、此地には今は跡もない、北風のみヒューヒューと寒い。
十二日は終日落ついて仕事をした、寒いから海岸へも出ない。十三日は雪、續いて雨で今も猶やまぬ。
(一月十三日夜七時)