ベートーベンのピヤノ

石川欽一郎イシカワキンイチロウ(1871-1945) 作者一覧へ

欽生
『みづゑ』第四十七
明治42年2月3日

 若い米國の旅行家連中。ボーンに在るベートーベンの家を見物して。故大家の居室と云へるに導かれ、感慨交々至り。種々故人の事蹟に就て質問したるが。其中の若い女一人。突如としてベートーベンが遺愛のピヤノに對し。さも得意氣にムーンライト、ソナタの一曲を奏し初めたり。故大家が居室に。故大家が所有のピヤノもて。故大家が曲を奏す。何等の幸遇ぞ。
 番人の爺さんは佛頂面して終始無言なりしが。曲終へて女は番人に向ひ。「之まで隨分音樂家も來て此ピヤノを弾いて見ましたろうね」
 「左樣。パデレウスキー先生(露國人、現時世界の大家)も昨年見へました」
 「マー。左樣」女は稍ヘコめり
 「併しね」。番人は一向お構ひなく語を續けり「他の人々が先生に此ピヤノで何にか一つと切りに所望したら。先生は頭を振つて。イヤ迚も私などの及ぶ所でないと申されましたよ。ハイ」

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