寄書 始ての寫生

後藤_奇
『みづゑ』第四十七
明治42年2月3日

 新たに文房堂で買て來たばかりのスケツチ箱を肩にかけて三脚をリユゥリユウと振りまはして天下の畫伯オレ一人と言はぬばかりの顔をして寫生に出かけようと思たのは昨日の考へであつた。さて出て見ると昨日の勢は何處へやら、何だか耻かしい樣な氣がする、然し何となく嬉しく思はれぬでもない、僕が出る時姉が「でも道具を持たつが嬉しいと見えてにこにこして居ます」と小ざい聲で母上に語られた。僕は少ムッとした。が其の中にも少しは嬉しい樣な氣も含れていた。僕は歩みながら、頻りに姉上のさつきの言葉を連發した。
 空には一點の雲なき迄でも晴れ渡ている。いつか八重洲橋を渡て少しは眺のめのよい所へ出た、此所らでよからうと道具をおろした。僕は人が居なかつたから其處にきめたのだ。
 僕はこういう事を考へていた。定めし繪をかく時は人が澤山に集てくるだろう、そして中にはけなす人もあるであらう、或は、僕の樣な繪でもほめてくれる人もゐるかもしれない、そして僕は顔を赤くするだらうと思た處が、案の條一人たかり二人たかり、遂には何處から來たともなく僕のまはりは黒山の人となつた、然し僕は繪に熱心になつていたので、人がたかつても赤い顔もしなかつた。僕はうまい都合に出來て居るものだわいと思つた。そういふ工合だから、人が僕の繪を色々に云ているのも耳にはいらなかつた。然したゞ幼い小供か「やアきれいな繪だな」「ウマイね」といつたのをおぼへて居る、でもさすがにそういはれると何だか鼻が高くなる樣な氣がした。然し其の鼻の高さはいつ迄も續かなかつた。ふと向を見ると五六人の書生が來た、僕は書生と見てあまりなぶらカければいゝがなと思つた。「實際なんだな、僕は始めて寫生に出かけた時くらい、いやだつた事はなかつたな」と一人が言つた「それも上手なちいゝがね、からなつていないときているだらう::」僕はからなつていないといふ言葉が或は僕をさしたのではあるまいかと思つた、そして次の瞬間には思はず顔に紅葉をちらした。暫く筆を.おいて休む。ばたばたといふ騒がしい音がする、振りかへつて見ると五六人の小供が來たのだ、「やア寫生している」づかづかと僕の傍へよつてくる「きれいだね」「うまいね」「やつばり鉛筆で先きへかへておくのだね」中でも一人は紙をじろじろ眺めて「ヤア之はあれだらうそら學校に賣つている一錢の畫用紙だらうね!?吉ちやん」と無邪氣な事をいふ。可愛そうにこれでもワツトマンだぞと腹の中でさけんで思はず吹き出した。
 三時間餘にして繪は出來上つた、まだ外に寫す處もあつたが家へ歸つて一度折れた鼻を一番うんと高くしてやろうと、そこそこにしまつて仕舞つた。

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