寄書 峠屋

長谷川利行
『みづゑ』第四十七
明治42年2月3日

△夕榮七彩がまばゆう樹から木へ洩れそれが前の小川にとつぷり暮れて終ふと、どこやらの遠い遠い晩鐘が餘韻を齎らす、お茂さんは「まあ今日は見事なのを三枚もおかきになつてーホヽホ」實際私は朝早くから夕暮までに懸けての水彩畫を描くのは三枚以上どうしても作られ無かつた、勿論或日は一枚もなく消沈して歸る時もあつた、何時でも黄昏假宿のお茂さんの家へ歸るとお飯をもつて來て下さつての挨拶はきつと製作を見ての言葉で盡された、私もそれを非常に嬉しく思つた。
△お茂さんの家へ來たのは昨年の冬休から一月六日學校が初まるまで二週間程居つた。
△十二三戸の人家があるばかりで酒屋へ六里豆腐屋へ六里と云ふ山奥で、狼の聲は聞えぬけれど猪は出没する所、山間のことまして山の奥の山腹にあるのだから家屋は低くて五尺の私でさへ起居に少々困難を感じた。
△冬のことだから渓流の畔は枝ぷりのよい寒林、山には杉が繁茂してゐる、總て景色は雄大で無いかはり小部分の畫材に富んでゐて、私の樣な幼稚な水彩畫研究者には適した地と思つた、この十二三戸の孤村、尾瀬沼の樣な所で無いけれど紀州にしては美しい自然を持つた土地と云ひたい。
△お茂さん!峠屋と云ふ名よりも深い印象を止めた、人がよくて親切て言葉が明かで豆やかで歳は廿七、生れて未だ町へ出たことが無い山猿といへ顔が美しいのと開けて居つたのは嬉しい。
△眞黒な着衣!お茂さんの平常着で、私が目を醒す時、寢る時、低い戸を操つたり開けたりして、お茂さん流の畫評を寢床に居つて聞くのが面白かつた、夕榮の山の畫を見て山火事、朝の村を見て夕方ですか等は振つたものだつた、お茂さんの齒は黒く染められて、丸顔でデブデブふとつた體、それを輕く大きな尻をふつて私の爲に働いて下さつたは感謝する。
△私は瓢然ここの村に辿って計らず氣に入つて、二週間の畫筆生活を、而かも愉快に快活に何の不平も無く幸幅に暮し新天地を迎えた。
△渓に望んで寫生をし居ると風が烈しくなつて畫架の脚を二本まで折り帽子を峯の松に飛ばしたり、猪が出たと云はれて道具を捨てゝ逃げた樂天的の事件に遇ふたこと、お茂さんが寒い或晩ソツト蒲團をかけてくれた事實もあつて、最初の計畫?水彩畫の寫生よりもズツト樂しい事もあつた、僅か大小二十餘枚の寫生を得たばかりであるが愉快で愉快で堪らない。
△峠屋村へ行く一番徑路は有田川の上流江瀬と云ふ所から堤に沿ふて行けば、少々困難だが行ける、本道は金屋から大和に入る縣道を辿つて行くのである、私が居る廣村からは十一里ある。
○峠屋は攝津の六甲山の半分位の高さでそれが爲井戸が深くて水をくむのに餘程時間がかゝる○猪の副食物は一週間以上食つた○食料は一日廿錢の割で不自由は無かつた○村人は私を學生とは思つてくれなんだから飛んだもてなしをしてくれた〇二日に一回郵便が來てその郵便さんに出す郵便を持つて歸つてもらはないと一里程下の村まで入れに行かねばならぬ○私は大得意で何にも知らぬ村人の爲めに展覧會を開いた、是は生れて以來單獨の展覽會として有名なものならん○紀念の爲に繪を恵んでやつたら大切に持つて歸つた人もあつた○私は斯な山奥に名を知られたのを非常に嬉しいと思つた○水彩畫の研究を始めてから日が淺いけれど兎に角描くことの出來るやうになつたのについては春鳥會、つづいて大下先生に御禮を申さねばならぬ○峠屋の村長さんは中學世界の口繪で知つたのか大下先生の名を知つてゐた。

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