模寫に就て
大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ
大下藤次郎
『みづゑ』第四十八
明治42年3月3日
▲他人の作にかゝる繪畫を模寫して自己修養の資とすることは、修學の不便なる地方在住の人などには便利な方法であつて、一概に排斥することは出來ぬが、あまりにこれにカブれて仕舞ふと取返しのつかぬ悪癖を生ずるものであるからよくよく注意せねばならぬ。
▲模寫の目的は大畧三樣にたれる。甲は他人の作を模寫すうによつて繪畫を作る方法を知らんとするもの、乙は自己の苦んで得られざる點、又は其繪の作家の苦心によつて現はれたる點などを模寫して研究せんとするもの、丙ば其繪に傾倒して模寫して愛翫せんとするものである。
▲甲の場合に於ける模寫の利益は、まつ位置の取方を悟る。如何なる形如何なる場處が繪として可なるかといふ問題に初學者の免れぬ處である、一册の書物もかくの如く置けは美的であるとか、一軒の家一群の松もこのやうな處から寫せば繪を成すとかいふことは、只其作を見たばかりでも分明でにあるが、自ら模寫するにょつて一層深く印象を與へられる。
▲次は省略の爲方を悟ることが出來る。自然は寫さるべく何物をも示してゐるが、其あらゆるものを畫面に入れなければならぬといふことはない、否却て其内に有用なるものと不用なるものとを見分けて幾分の取捨を行はねばならぬ、これも初學の人の難しとする處であつて、模寫によつて其適度を教はることが出來る。
▲描寫の方法、筆の使ひ方、濃淡色彩の配合等も模寫によつて學ぶことが出來る。自然より寫生するとなると時々刻々其色にも形に變化を來して、到底未熟の技兩にてはそれを正確に捕へることは出來ない、又かゝる樹木は如何に筆を運ぴゆけばよきか、草は何れより色を塗りゆくべきかといふことも模寫によつて明かに説明を受くるであらう。
▲かくの如く模寫によつて繪を學ぶことは、實物寫生を試むるよりも甚だラクであるが、更に翻つて模寫の害を考へて見ると、寒心すべき點が少からずある。
▲第一に困るのは、原作者の癖を其儘取つて、それがいつ迄も抜けないことである。其は師に就て習つても若し其師が偏狹な人であると、弟子を自分で作つた鑄型にはめて第二の自分を作らぬば承知しないといふ困つた先生もないではないが、模寫では誰からも強られたのでなくとも自然にそのやうになる、それが爲めに自己といふものが没して仕舞つて、將來の發達を害されることが甚しい。
▲若し其原畫が印刷物であつたら、一層氣の毒な結果が生れる、即ち原作者の癖のみでなく、印刷の一種の臭味迄も眞似ることになつて、二重の害を受くるのである。石版の多くに、色數を省略するために往々單調となつて、強いタツチが到る處に散點してゐる、原色版の多くは、赤とか黄とか三色若くは四色の化合のうちに、必ず強い色があつてそれが全畫面の隅迄も行渡るため、そこに一種厭ふべき俗色を帯びるのが常である、若し心せずして原畫に如斯ものぞと信じて模寫してゐたら、取返のつかぬ損害を受くるであらう。
▲ある地方の熱心家に、肉筆畫を見る機會なく又習ふべく良師を得られざりし爲め、英國名家の作の原色版を手本としてそれを模寫し調子を覺えた、次で實物を寫生をして屡々私の處へ送つて來て批評を求められたが、其等の作は、何れもよく調子が整ひ、遠近濃淡色彩等繪畫として一見申分のない樣な出來ではあるが、いつ見てもいつ見ても其色は死し其筆は死し、實際寫生したといふに拘はらず繪に殆と生氣といふものがなく、山も川も樹も家も、其形を除いては日本の自然とは見えずして英國の空氣に包まれて居た。これでは單に自己の感じたる處を畫面に畫き出すことが出來ぬのみならず、何十牧何百牧寫生しても其成績に同一であつて心機を一轉せざる限りは進歩發展の道がない、現今英國大家の筆を模寫してさへも其結果は以上の如しとすれば、模寫黨は大に警戒を要するではないか。
▲模寫によつて繪を習つた入は應用の力が乏しい。自己の模寫した物は巧に畫くことが出來ても、それ以外のものは寫すことが出來ない。それよりも繪に最も尊べき獨創といふものが現はれない。實地の寫生をしてゐて目の前に實物を置きながら、曾て模寫した色や調子が出て、正直な寫生をする積りでも兎角主觀的になりたがるものである。
▲主觀的になるために自然の觀方が粗漏になる、一わたり表面丈けは見えても内部の生命を見ることが出來ない、初めから自然に親しんだのでないから繼子氣質になるのは止を得ないかも知れない。
▲この故に、若し臨本模寫によつて繪を學ばうといふ人は、まづ其臨本は世に許されたる大家の筆でなくてはならぬ、若しそれが印刷物なら、其版は原畫に近い精巧なものでなくてはならぬ、そしてたゞ一人の作にのみ頼らずに、數人の作を寫して、其長所を學ぶと共に作者特有の癖が知らず知らずの間に染み込むことを避けねばならぬ、物を學ぶに最初の師が其人の將來に大なる影響を與ふるが如く、手本を模すのにも最初が極めて肝要である。
△日本畫の稽古は、臨本模寫を主要として寫生などに近頃漸くやらせるとの事であるが、西洋畫でも多くの畫塾では十餘年前迄は古大家のデツサンを模寫させたが、前述の理由により近來ではまだ鉛筆一つ持つた事のない人でも寫生をやらせる樣になつて來た、これが最も新しい教育法になつてゐるのであるから、他人の作品は一の參考品として觀るだけに止めて置て、繪の稽古はヤハリ苦しくとも實物寫生をやつた方がよい。
▲ある大家は山を美しく畫いた、自分にに其調子が分らない、そこでこれを寫して其大家の用意のある處を研究して見る、これが前述の乙のやり方である。この模寫のやり方に何等の害がなひ、否大に有益であるから屡々試みる方がよい、必ずしもその繪の全體でなくともよい、自己が研究せんとするその一部分だけ寫してもよい、併し是とても參考のために爲すべきことであつて、他人の作を自己が其儘踏襲したのでは何の益もない事になる、そしてこの種類の模寫を試むべき原畫は必ず肉筆であつて欲しい、版畫では充分の目的は達せられぬであらう。
▲なほ前項乙に屬する模寫は、形の細部など強て眞似るに及ばぬ、たゞ其現はれたる感じが取れゝはよい。
▲丙、即ち自己が愛藏せんため、叉は他日の參考に資せんための模寫は前者と異なり作家の意のある處を知ると共に原畫の有の儘一點一劃も間違なく寫し取らねばならぬ、此場合には畫面の大きさも同じにしたい、濃淡色彩等出來る丈け原畫と違はぬやうにありたい、よく「これは誰の繪の模寫である」といふて隨分如何はしいものか見せられることがあるが粗雜なる模寫は原作者の名誉を害ふものであつて、甚だ失禮の所爲であるから、模寫するならば誠意誠心充分の力を致さねばならぬ。
▲他人の作を模寫してその繪に自己の落欺をつけて置く人がある、その人は何の心もつかずに爲て居るのであらうが、是又原作者に對して非禮であると共に、その事が知れた時は自己の人格迄も疑はれるから愼まねばならぬ、此際にによろしく傍に「模」の一字を加へて置くべきである。
▲自作の持寄會、競技會、又は小さな展覽會などへ往々模寫が混つて出ることがある、この際も原作者の名と共に模寫である旨を明記して置くべきである。或會では他人の作の模寫又は一部の改作を、自己の作と稱して賞を受けて恬然たる人もあつたそうだが、これ等は論外で、宜しく美術界から放逐すべきものである。