イースト氏寫生談 印象派(承前)

石川欽一郎イシカワキンイチロウ(1871-1945) 作者一覧へ

石川欽一郎
『みづゑ』第四十八
明治42年3月3日

 筆致に於ても其間に自から遠近の別あるべし、例へば最遠景の空や景色は筆法前景の如くに粗剛なる可からず、遠景の空は常に滑かなる感じを覺へ、漸く中天に至るに從ひ變化を生ずべし、景色も亦同じく、遠景は前景よりも其素質滑らかに思はるゝものにして、之れが變化か與ふる時は能く遠近の趣を現はすに至るべし、畫家は物體の遠近法を多少心得置くの要あるは勿論なれども、風景畫に於ては目に見ゆる物體よりも目に見えざる色彩の遠近法こそ大に研究の要あるものなれ、地面は概して平坦なるものにして見下ろしたる如き縱面のものは無く、又た地上の物體が漸々縮少するのみを以て之れが遠近を現はす可きにあらず、自然の裡には一本の線あり、此線は目にに見えずともそう感ずるものにして、即ち遠景の山の麓の線之れなり、野も畑も皆此線に伴ふ如く見へ、何物も皆此想定線上に横はり、又た如何なる風景畫にても此線は皆強く且確實に感ずるものなり、風景畫家は物體が遠方に至れば其形が縮少すると共に、之に及ぼす空氣の關係をも能く研究し、色彩の濃淡強弱に誤りなくして且つ空氣の色の遠近にも能く叶ふやう爲さゞる可からず、例へば秋の景色を畫くに當り、同じ場處に黄色の木と線色の木とあらんか、此二本の木は其大さを前景に比例して現はすに容易なれども之れを同一なる空氣の色の關係に現はすは容易ならず、畫家と此二本の木との間に同じ奥行の空氣ありとすれば、其色彩をも之に應じて研究せざる可からずして且つ二本の木に觀者より同じ距離に在るものなることをも示さゞる可からず、されば色彩の遠近法に物體の遠近法と常に關係を同じくせざる可からず。
 遠景の物體は之を現はすに困難なるは勿論なるが、只だ前景の繪具を薄くして遠く見せることを爲す可からず、此方法にては到底目的を達すること能はざるべし、故に繪具の種類を全く變へざる可からず、要するに前景にては繪具を強く復雜せしむるも、中景にては少しく融和せしめ、遠景にありては充分に混ぜ合はせて平らに塗る等の如し。
 畫風なるものは主に畫の構圖に關係し、又た畫の重味なるものは畫の各部の關係を彌々深く究むるにつれて現はるゝものなり、畫かんとする物の性質を能く現はすべき特徴を捕ふべし、樹木を畫くには葉を一枚々々現はすには非らず、尤も和蘭風の古畫に見るが如く、葉を細かに畫くべしとの説を爲せる人あれども、此法にては終に好結果を得ざりき、要するに如何なる風に畫けば最も美しきを悟るべし枝の一團艶を畫かば其中には如何にも細葉繁れるが如くに見るを期するにあり、中景にある家屋ほ煉瓦造りなりとも特に之を其積りにて畫くにあらず、其色の調子のみを捕ふるにあり、只だ此調子が煉瓦であると云ふ物質を示さゞる可からず、又た例へば樹の下に牛が眠り日光は樹間を洩れて牛に影日向を付けたりとせんか、牛は影の部分も日向の部分も將れ其體躯の赤き處も白き處も皆毛にて覆はれたるは能く知ると雖も、此毛を一々畫かんとする人はなかるべく、又た此牛を板の如く扁平に畫かんとする人もなかるべし、此の如く草にても木にても皆同樣にして、遠方にある草山も緑色なることに誰も知れりと雖ども、然らば目前にある草葉を探りて比較するに於ては、遠山の草は空氣の關係により少しも緑色ならざるを見るべし、故に其通りの色を以て遠山を畫き、以て觀者に自然の實景を思はしむ可く、其色は異なるとも實際は足下に生へれる緑草と同一物なることを感ぜしめざる可からず。
 此他尚ほ幾多の例はあるべしと雖も要するに、自然を凡て綿密に模倣したる畫が能く自然を傳ふと云ふは全く誤れるものなる事を知るべし、自然を綿密に模倣するにはあらず、自然を悉く修得し、我目的に應じて自由に之を取捨選擇し得る畫家にして甫めて自然に對する巧妙なる智識を得たりと云ふべし、之に獨り繪畫のみに限らず、文學も音樂も皆同じ、單に自然の音響を模倣するが音樂にあらず、一地方の状況を詳述せる案内記が文學にてはなし、甞て風景畫展覽會ありて優等者に賞を與ふると云ふことになりしが、規定に風景畫なるに賞を得たる畫は河邊に蘆の生へたる圖にて、其蘆は如何にも綿密に畫きたるものなれば無論習作としては忠實に畫かれ申分なき出來なりしと雖も、之に風景畫とは云ひ難く、他の風景畫を出品せる人は此畫が選に入りしを見て一驚を吃したり、此畫に取るべき處と云ふは唯細かに自然の通りを模傲したるのみにて我が考へは少しも加へず、又た物の特性も現はれ居ざりき、此筆法を以て畫ける此畫家の風景畫を見たらんには定めて面白きものあるべし、蘆の畫に於ても、能く其成長の有樣を研究し種々變化を與へて現はしたらんには更らに妙なりしなるべし。
 畫が仕上がると云ふは、最早一筆をも加ふるの餘地なく、線も形も能く一致融和したるものを云ふ、構圖の優且壮、色彩の妙、自己特有の畫趣等は何れも畫面に現はれ、彷彿として自然の大なる勢と深き眞とを想はしむるものなるべし。
 常に自然より習作を爲すは他日眞面目の畫を作るに大なる利益あることは已に述べたり、况んや色彩の練習は畫室に在りて畫を作るに際し大なる助たるべきは論を俟たず。
 戸外にて直接自然に頼り畫を作ることの有益なるは已に述べたるが如くなれば努めて此方法を採らん事を研究家に勸むるものなれども、世界に最も有名なる風景畫の中には、實際現場にて畫きしに非らざるものあるに眞にして、將た又戸外にて畫きたる畫にて成功せるものは、皆上來述べ來りたる手段方法に依りたるものなる事も亦眞なり、蓋しターナーも其名聲嘖々たる作を出すに當りて、平常寫生の練習を深く積まざりしならば或は難かりしならん、例へば同畫家の難破船若くは渡頭、或はバイヱの入海等に就て見るに、難破船は激浪怒號の眞景を現はし、渡頭及入海に就ては渺漠たる平原に夏日の炎ゆる如き眞畫の光景美しく巧に畫かれたれども、之れ决して現場に於て出來上りしにはあらず、又た出來もせざるべし、果して實際に寫生したりとせばとても斯く多く現はしがたし、全く平素の練習と記憶とによるものにして、同畫家が常に鉛筆にて寫生せるものに註記を加へ、或は色彩の特に美しき場合等を習作せるを見ば、如何に眞面目に研究の功を積みしかを悟るべきなり、斯く常に練磨出精し、時間と勞力とを惜まず、專心我考案を表はさんとして力めたるに風景畫家には極めて肝要なることにして、殊に興味あろは同畫家の技術上發展の徑路が、初め實地を充分に研究したることにて、先づ實質實體を現はすの順序より、終に理想を現はすの域に達せり、諺に人に使はれざるものは人を使ふこと能はずと云ふ、畫家の生涯程適切なるはなし、多くの人には此使はるゝ間が永く苦しきものならん、又た中には天性畫才ありて容易に眞髓を悟る人もあらん、之れ畫には限らず何事も皆然り、若し初學者が正道を誤り岐路に昭蹈入らんとするより呼び戻さるゝを得ば、目的地に達するの日は將さに近きにあるべし。 (完結)

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