抄譯

夢鴎生
『みづゑ』第四十八
明治42年3月3日

 婦人連が布帛の色合を比べる樣に、描かんとするものに對して畫紙の一端を持ち來りて、自分の考で彩らずに寳際見ゆる儘に彩色して實物の色と比較しつゝゆくと、兩者の色が辨別し難くなる、此の場合には彩料の明暗を容易にする爲めにホワイトを少し混せて不透明とする。
 かくして見ると、濃い緑か又は黒色だらうと思ふてゐた樹の蔭影が、薄い紫かパープルであるかに氣が付く、緑色だと思ふた明部は全く黄色である、かく實物と比較して近い色彩を得ればこれが眞の色である、ターナーの用ひし色彩と同一である、それならば何故實際の色に見えぬかといふに、是は空や其他の高き光の物と對照する爲めで、自然は物の蔭影をぺール、バープルに彩どるけれど、空の明るさ、太陽の輝き等がその色を暗く見える樣にするのてある。
 白紙に墨汁の一滴をたらして、それな日光に當てると墨汁が眞黒に見える、紙を日蔭へ入れると墨汁は左程墨く見えぬ、尚暗い方へ持つて行くと白黒の對照が消え去る如く感じ、暗黒の室では白黒の區別がない、一般の法則として、模樣のある物などに明るさを強くすればする程其の模樣が明瞭に見える。
 更に白紙に赤インキを落して前の如くすると、白、赤の對照が日なたでも日かげでも同樣である、しかし明るくなれば幾分對照の度に増すのであるが、或る度を超すと増さない。
 ターナーは能ふたけ柔順に自然の示す所に從ふた。
 飽和されたる色彩を蔭影に用ひ、やゝ弱き色を光部に用ふるときに一般に光りを現はすに宜しい、薔薇の花が他の花よりも美しいのは、紅色が單色中で最美しき色なるに由ると共に、今一つに薔薇の花では蔭影らしきものが見えない、唯色に濃淡があるばかりであるからである、即ち蔭になつた部分も明かるい部分も色調が充分である、勿論これには葉の半透明と反射とが影響するのである。
  凡て、ローカルカラーは光部では弱められ蔭では強められるタツチは近くでは混雜して見えるけれど、少し離れると良く見えるものである、巧みな畫家は、思ふ半分を畫面の近くで畫いて、殘り半分は離れて之を畫く。
 立優りたる畫家は又小さき家に住する賢人の如し、客人の名數が面謁せんとして舎前に騨集する如く、幾多の眞理が眼前に群がつてある、賢者は自己に益ある客人のみを引接する、巧みな畫家も亦自分の必要な眞理だけを採取する。
 正しき技術は如何なる形式に現はされても、眞理の種々の排列の中から或者だけを撰擇して、その僅少なるものにょりて其全體を代表させ、他の不必要なるものは除去するといふ點に存するのである。
 技術の風の卓越なるには第一にかく撰擇したものゝ組立の巧拙に依る、能ふだけ忠實に完全に表現する爲には、撰擇すべき眞理其ものの如何に依るのである。
  第二には調和の廣さ即ち表はさるべき眞理の數に依る、大畫家が二派をとつた
 一はポールヴエロニース、チチアン、ターナーを首頷とも見るべき、重に色彩に關して描くものと他の一派は色彩に重きを置かずして、明と暗とに重きを置くものであつてレヲナルド、ダ、ウヰンチ。レンプラント。ラファユルが其首領である。
 レヲナルド等の繪畫は、多くは比較的色彩の乏しき暗灰色又は褐色等の蔭影によりて毀たれる、これ等の畫家は明部より初めて暗部に終はる、しかしターナー等のは其畫が前にいつた薔薇の花の樣に、蔭の部分にも色が富んてゐて、漸次弱く高尚なる色彩に遷り行くのである、これらは蔭に初まりて明部に終る。
 色彩を精確に研究するものは形の上にも其力を加へる事が出來るが、形を研究したものは色彩の上に其力を及ぽすことは出來ない。されば桃の實で鼠色、紅、紫の幾種かを認め得る人は桃を正しく圓く描くことが出來るが、形態の圓さのみに就きて研究した人は紫、鼠、等を認めることが難い、若しそれが認められぬとしたら、桃の實と見せる事が六ヶしい。(ラスキン氏『近世畫家」より)

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