寄書 余の水彩畫の初め

緑葉生
『みづゑ』第四十八
明治42年3月3日

 余の水彩畫の習ひ初めと云ふものは忘れもせぬ三年前の昔高等小學校四年級の時分の事である。其れは今の今まで鉛筆畫のみを書いていたのが初めて其れに彩色を施してあるのを學ぶ樣になつたのだ。其時の愉快な事と云つたら實にたとへ樣もない程であつた。此れより以後と云ふものは面白まぎれに臨本と云はず雜誌の口繪と云はず餘暇ある度毎に怠らずに描いて居た。其時分に恰も日露戦爭の眞最中の事とて色々なる雜誌が發行せられた。分けても戦事畫報や日露戦爭畫報等は余の心を動かしたのである。やがて此年も暮れ四十年の新天地を迎えて中學一年に入學する事となつた。扨て中學校では淺井忠氏著の鉛筆畫手本だ然し余は之れでも暇ある毎に繪具箱を開かない時はなかつた。或日意外にも若松さんと云ふ人から自筆繪葉書が來た之を見た余は一種云ふ可らざる考が胸を刺激した其れと云ふものは云ふまでもない『吾も斯の如く上手になりたいものだナ・・・・』『然し人間に何事も勉強せねば上手になれるものでないだから吾々もこれより一生懸命になつてやらう』と思ひ、之からは前よりも一層勉め勵んだ。或日自筆繪端書を彼に送つた三四日過ぎて返事が來た。曰く「先日下された端書に大變よく出來た。然しまだまだ色の塗り樣や形の取り樣が完全でない。だから今上げたのは水彩繪一斑と云ふ本であるから其を見て覺ゆる樣にしたまへ」と云ふて親切にも書物と繪端書とを送られた、其時は嬉しくつて嬉しくつて詮方がなかつた。之れからは本あ讀んだり又は畫いたり一生懸命になつて其れに取りかゝつた之れが抑々の水彩畫を習つた始めである・・・・愛する水繪君よ永久に余を導き給へ。
 

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