ラスキンの山岳論[三]
小島烏水コジマウスイ(1873-1948) 作者一覧へ
小島烏水
『みづゑ』第四十九
明治42年4月3日
『近世畫家論』の出る筋路を述べましたに付て、年月を御話すると、第一巻の出たのは千入百四十三年、天保十四年に當る、日本では水野越前守が御老中で、二分判だの、二朱銀だのといふお金を使つてゐた時代である、第二巻は千八百四十六年に出た、第一巻を出してから四年目であります、其時丁度弘化三年で、露西亞や米國の軍艦が餘程日本の近海を迂路ついて、日本もソロソロ門戸を開けなければならぬ時代に迫つて來た、それから又十一ヶ年ばかり經つて、第三巻四巻と二册一度に出した、其第四巻に「山岳美論」があるので、山岳美と云ふことを見やうと思へば、第四巻を見るに限るやうに私は思ひます、此第四巻によつて、山岳に對する世間の趣味が喚起せられ、英國の山岳會―世界中で一番古い―が、翌年組織されたのであります。最後の第五巻は千八百六十年に出ました、此第五巻の出版された時は、日本の萬延元年に當りまして、水戸の浪人が白晝大臣の首を刎ね、櫻田門外、血は櫻の如しと謡つた時代に、初めて完結を告げたのであります、『近世畫家論』の第一巻から五巻までの間に十八ヶ年掛つた、併し其の間には『建築の七燈』『ヴヱニスの石』其他の名著を出してゐるので、何も『近世畫家論』にのみ、それだけの時が掛つて居ると云ふ譯では無い、前に申した通りラスキンが此近世畫家論の第一巻を出すと、其時の「藝術界の辯難攻撃は甚しかつたですが、其中でラスキンの名文と其理窟の立つて居るのに非常に敬服して、詩入テニズン―第一流の大家―は實を言へばラスキンを小僧ツ子のやうに思つて居つた、其人が言葉を低うして一部を著者に乞ふた、其他サアヘンリーテイロルと云ふに、自分の知れる誰彼よりも、深い、根底ある、想像力のある人だと言つた、阿父さんはラスキンがさう云ふ風に文壇に成功したので非常に悦び自分もカブレてターナー崇拜となつた、それでターナーの名畫とか板下畫とかを金の有るに任せて集め集めた、今日「ラスキン、コルレクシヨン」と稱して英國に傳はつてゐるターナーの繪畫は皆それである。
ラスキンはかうやつてターナーか紹介したばかりでなく、『近世畫家論』二巻を出すと、一つは有機鹽生物の研究二にはヴヱニスの大家チントレツトーの紹介をしたのです、ラスキンがヴヱニスでチントレツトーの畫を見るまでは世間のは、さう云ふ大美術家がゐたといふことすら知らなかつたが、ラスキンの此著述に依つて非常に目が醒めたと云ふやうな有樣になつた、それであるからラスキンがどれ程直正の美術家の爲に盡したが分らぬのである、それならばラスキンが『近世畫家論』に言うたことは、皆間違ひ無いかと云ふと、どうも、いくらひいき目に見てもさうばかりには往かない、併ながら燃ゆるが如き熱心を以て、眩惑するやうな文章を書く、恐らく一方に美術家を兼ねてゐて是位の文豪であつた人は、近代先づ無かつたらうと私は思うて居るです、ラスキンはカーライルと共にビクトリヤ朝に並び立つた大批評家であつたが或意味に於てはカアライルよりも蝕程私はエライと思ふ、人を動かす力の鋭いこと、詰りラスキン一人で「自然」と云ふものに對する全世界の趣味眼を、根本的に改革した功績は非常なものであると思ふ。(つゞく)