圖按法概要 [六]圖按の目的と効果

比奈地畔川ヒナチハンセン 作者一覧へ

比奈地畔川
『みづゑ』第四十九
明治42年4月3日

 圖按は全ての物を作る上に於ての要素であると言ふことが出來る、どういふ大きなものでもどういふ小さなものでも、例えば建築物の樣なものでも、携帯品の樣なものでも、圖按の巧拙によつて作品の善惡が分れるのみでなく延ひて工商業の消長にまで關する樣になる。圖按の目的とするところは、目に華麗で許りよいではない、又單に、精巧にのみ作られてそれで目的が達して居るわけでもない、要するに物に應じ質に從ひ、其用途に適用する樣作らなくてはならない、即ち各種工藝品の使用上、或は觀賞上に、恰然適合したものでなくてはならない。要するに工藝美術は、形式的の術を主要とする(純正美術はさうでない)故に模樣を配するにしても、大體の形状を忘れてはならない、若外面の装飾を華麗にすることに付て、模樣のみに力を專らにしても、工藝品としての目的には叶ふて居ない、それは圖按の本義からみても、本を忘れて末に走つたものと云はねばならない、兎に角、工藝品は、一方に於て實用と云ふことを忘れてはならぬ、たゞ巧みに装飾を應用して美を得せしむる處に大なる價値がある。
 更らに引延ばして云ふと、各種の製作品をして、施工上にも製作上にも、比較的容易にして、然も最も簡便に作らなくてはならない、然しこれは、程度問題であつて、華麗にするも質素にするも、全ての工藝品の種類或は性質によつて其方法を施すに緩急のあるべきは勿論である。例えは、實用に重きを置くもの(日用の飲食食器の如きもの)は、專ら輕便容易といふことに留意し、深く外觀の美などを究むる必要はもとよりない。又装飾に重きを置く(床飾品の如き)ものは、輕便堅牢といふことよりも、装飾的美觀に多大の注意を拂はなくてはならない。然し、多くの場合、此等がうまく圖按そのものゝ性質によつて均衝されたならば、其圖按の目的ば畧々達せられたものと云ふてよい、圖按の困難なのにかゝる容易な點にある。
 それから、尚特に望ましいのは、如何なる種類の物でも其物に應じた處の趣味氣韻を含ましたいのである。論者があつて或はそれは實用品に不必要なことだ、唯使用上便利であり得れば足りて居る、工藝品と純正美術との異なる點はこゝにあると言ふ非難をするかも知れない、けれども、自分はさうは思はない、今更ら事だてゝ人間の美的趣味なる性情に付て、あれこれ云ふ必要はなからうけれども、此貴い、温雅優美なる通有性を以て生れたる人間は、日常耳目に觸れる處の百般の器具……それは實用非實用の孰れにもせよ、無意味無趣味なものであつては、到底吾々が有するところの美的性情に滿足を與へないのである。吾々は日用の使用品の上までにも、或る程度までは、ある趣味を持ち、ある嗜好か抱きたい、これによつて吾々人類的生活の上に、高い貴い人間としての價値をも定めたいのである。
 かゝる精紳、かゝる機能は、廣い意味の圖按的作用、即ち圖按的嗜好と言ふことが出來る。どんな階級(貴賤の)にある人でも、假りに十の物から一ッを撰撰するとした場合は、必ず自己を標準とした、即ち自己の圖按的機能によつて其嗜好を選むに違いない、かゝる美的性情、それが一般人類の通有性であつて、何人と雖も其圖按的覇絆を脱することは出來ない。再言すれば、吾々の精紳機能は、實に有意味であり、有趣味である、一手を動かすも一投足を下すも、吾々の總ての生活状態は以上の支配の下にある。
 故に圖按家は、吾々の忘る可らざる圖按なる精神機能を、如何なるものゝ上にも忘れることは出來ない、一圖按の上に趣味又は氣韻を含ましたいと云ふたのは、以上の理由による。無意味無趣味殺風景な行はどうしても野猪的の行爲である、高い貴い人間の行動ではない。圖按家は、その精神を圖接として實體に顯はさなくてはならないのである、そして、初めて圖按の目的はこゝに盡きる。
 圖按の効果と云ふことに付ては、今多くを言ふの要を見ないとも思ふが、まづ圖按を搆成することによつて、想像と思想とを誘導し、創始の感念及、能力の感念を養成する一助ともならう。或は間接に、物の形を正確に認め、觀察力を微細の物に迄及ぼすことを得べく、隨て手工上の熟練は、よつて一般のものに及ぽすことが出來やう。それは、專門家のみに付てにあらず、嗜好家、鑑賞家の側からみても、其効果は等しいものである。亦生活の向上は、延いて一家の粧飾に及ぼせる場合、粧飾的圖按の趣味を養ひ、種々の工夫を一家のうちに及ぽし、此趣味を普及し、温雅の性情を養ひ、美術的の鑑賞と審美の念を啓發することも亦淺少ではなからう。(禁轉載)

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