國府津より

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

汀鴎
『みづゑ』第四十九
明治42年4月3日

 二月十一日東京へ歸り、翌夜研究所へゆく。
 十三日夜、永地氏と共に牛込北町に磯部忠一氏を訪ふ、近作三四點、何れも面白し、井頭池畔の杉の研究殊にょく、湯河原の農家も感深き繪であつた。
 十四日研究所へゆく、日曜の學生八九名、ビール罎にコツプを畫かした、材料簡單のためか成績が大によい。
 この夜、越後の某氏から例の手紙が來た、例のとば、「東京で勉強したいが學資がない、小使代りに先生の家へ置て欲しい」といふ意味なので、この四五年來こんな手紙は毎月一二本舞込ぬことはない、履歴書を添へて細々と書き並べて來るのもある、敬慕してゐるの崇拝してるのと無暗に持ち上けて來るのもある、先生の處に居て先生旅行などの時お供をしたら愉快であらうなどゝ虫のいゝ夢を見てゐるのもある、甚しきは前に何等の照會もなくして荷物持參の突然押かけて來れのさへあつた。私は常に美術趣味の普及を冀つてゐる。紳士として淑女として必要なるのみでなく品性の修養上尤も大切な事と思ふから、一般の人にこの趣味を持つて貰ひたいと、明暮この事に力を致してゐるが、曾て專門家になれと勸めたことはない、美術家となるには門外の人の知らぬ幾多の勞苦があつて、そして一度此道に入ると足を洗ふことが甚だ困難なものである、且天與の才分なきものは容易に一家を爲すことが出來ない、然るに近來漸く美術熱の盛んになつたと同時に、地方に在て一寸繪でも描ける人達は、直ぐにも專門家となつて世に出でやうとする、それもよい、自己の境遇がそれを許すならよいが、學資もなく、さればとて自活し奮闘して苦學する決心もなく、徒らに他人に便つて修業しやうといふのでは、其薄志に對しても世話をする氣にはなれない、また私の家にしても、僅かに家族の住ふ丈けよりは他に空室とてもなく、志望者に滿足を與へる丈けの富の餘裕もない、それがあれば、一二個人のためでなく、研究所の擴張なり『みづゑ』の發展なりに使つて多くの人を益したい、燃ゆるが如き志望を抱いて、空しく東都の空を眺めつゝある、これ等熱心家のためには御氣の毒であるが、今の處何分致し方がない。次に迷惑を感ずるば就職口の周旋依頼である、傍ら何かの職を執つて、晝なり夜なり勉強したいといふのである。東京に知人なき人にとつては、私の處へ依頼さるゝも不得止事であらうが、中學卒業程度や小學校の教師位ひの處で、別に專門の職のない人であると、一寸世話をする塲處がない、低級な技倆でありながら、成るべく畫に縁のある職業をなど條件付にいよいよ困る。相手代つて主代らずで、一人や二人は世話が出來ても、絶えず申込まれるのでは避易せざるを得ぬ、私は、繪の上の御相談なら飽迄盡力を惜まぬが、衣食の方面は自分さへ怪しいのであるから、到底依頼者に滿足を與へられぬ、多分是からも同じやうな申込がある事と思ふから、この機會に前もつてお斷りをして置く。
 序にもう一つある、『水彩畫の栞』を買つたとか、『みづゑ』の愛讀者であるとかいふて、肉筆水彩畫が欲しい、繪葉書を一牧なんて頻繁に御請求がある、簡單な繪葉書などは、四五分間もあれば描けるのであるから差上たいが、是も際限のない事で、一度御望に應ずると容易ならぬ事になるからいつも御免を蒙つてゐる、どうかこのやうな事で、常に忙しい私を苦しめぬやうに願ひたいものだ。
 十五日午後國府津へ來た、藤澤以西梅花點々闇に白し。
 十八日、朝から停車場の後ろの山へ登つて見た。よく晴れた日で風もあまりない、野梅の滿開で、到る處清香にむせぶやうである。
 中腹、密柑畑を前景とし、海を背景にして寫生を試みた。水平線上に眞鶴岬が浮んで、其背後には幽かに伊豆連山が見える、晴々しき明るき水に對して、やゝ橙色を帯びた濃い緑の密柑の木はよい對象である。中景、漁家の暗き家根の間に梅がほの白く織出されてゐるのもよい、一本のたけ高き棕櫚の平らな水面の單調を破つてゐるのも面白い、密柑の木、そして棕櫚、たゞこれ丈けでも南の國の暖かき感は浮ぶであらう。
 一歩一樹を數へる程に梅が澤山ある。梅の美はその樹態にある、その香氣にある、花としては形に色に大なる價値はない、奇峭なる木振枝振、それに香ゆかしき花が咲いてゐるので甫めて美をなすのである、嚢駝師はその花よりも香よりも樹幹を尚ぶ、梅の古木、その幹に白緑の苔のつきたるものはよいが、若木のそれはあまり人に顧みられぬ、從つて梅は近くに見るべきものにして、遠景に在ては美を爲さぬ。武州青梅を距る一里、吉野村といふ處に大なる梅園がある、花の頃そこを隔つる數町の多摩川の岸より眺めたのでは、古綿のごとくたゞ薄穢なき一團の白をおぼろにみるのみにて何等の美も感ぜぬ、そして梅さく時分には、其花をして美ならしむべき周圍の色彩が殆どない、地上僅に寸を抽きし麥の緑は寒く暗い、これが桃や櫻の花となると、麥の緑も明るく、菜の花も黄に、空も紫になつて、四方から積極的の調和をなすため、紅霞搖曳十里の遠きよりも其美を認めらるる。
 梅を繪とすることは甚だ困難なるものである、家の蔭や何かの暗い處へたゞ外貌丈け寫してあるのはいくらも見たが、梅を主題として畫いたものは西洋畫には少ない、神戸岡本梅園を寫したパルソンス氏の水繪、向島百花園に於ける不折氏の油繪、私の記憶はたゞ二三點を數へしむるのである、野崎某氏の月の瀬も見た、某氏の龜井戸も見たが、何れも梅といふ畫題がなければ判らぬものゝみであつた。東洋畫には梅をよく描く、そして逸品も多いが、西洋畫家にはあまり好まれぬ。
 私は殆ど十年前、根津の下宿屋の庭、大久保天神社境内、雜司ヶ谷附近等で梅の習作をした事がある、何れも三四日は通つて熱心にやつたゝめ、其頃の出來としては成功した方であつたが、それは皆うす紅梅で、花の色からいふても畫き易いものであつた 國府津に今咲いてゐる梅は何れも野梅のその花は白い、三宅氏は白い梅は佛前の花のやうで、淋しくて線香臭いといふて嫌ひなものゝ一つにしてゐられる、私は白い梅の花はまだ描いた事がない、ドンな工合なものか稽古をして見やうといふ氣になり、目前の一株を主題として筆を執つて見たが終に大失敗に了つた、その原因は、描かんとする動機が感興からでなく好奇心からであつた爲めではない、全く自梅そのものが繪として六づかしいからであつた、私の寫した梅は、上部の半ば空と海で、下部は密柑畑が背景になつてゐる、根元は枯草と赭土で、樹はやゝ日を背にして前の地面に暗い影を投じてゐる、前にも言つた通り、遠く離れては畫にならぬから、三四間の近く迄よつた、花は一つ一つ明らかに見える、空に出てゐた方は暗く、下に明るく、そして何の連絡もなくポツソポツンと枝にヒガミついてゐる。其枝にはまた、梅特有の小さな尖つた小枝が無數に出てゐる、これを描かなければ梅の趣が出ず、描けばウルサクなる、日のアタッタ處、日蔭の處、それが花一つ一つに入り亂れてゐて、大體の濃淡を見ることが出來ぬ、花辮の白き、蕊の黄なる、花蕚の褐色と相混じて、その色は捕捉することの出來ない現象を呈してゐる。バタバタがきではそれらしく見えず、花一つ一つ畫いたのでは纒まりがつかぬ、二三時間突ついてやめたが、今更ながら自分の技倆の幼稚なのに呆れた。
 畫家はドンなものでも畫けねばならぬといふことはない、從つてドンなものでも畫かねばならぬ譯もないが、ドンなものでも畫けるだけの技倆を持つてゐたら幸福であらう。專門に入る前にまつ普通學を修むるが如く、私は是迄何でも手當り次第寫生を試みて見た。そして熱心に幾度も繰返して研究してゐれば可なりの域迄は確實な描寫が出來るものである事を知つた、併し白梅は今度の新しい試みであるが、ほかに一つ未だに困難を感じてゐるものがある、それは磧の拳大の石の集積である、現にこの頃も酒匂川に於て研究して見たが成功しなかつた。
 私は一二年多摩川の畔に住居つてゐたゝめ、數へることが出來ぬ程澤山の河原の寫生をした。石白き多摩の河原、それは近くでも遠くでも寫し難いもので、日を前にして白く輝き、水の眞蒼に見える時は特に六ッかしい、遠くでは要領を得にくい、近くでは青や赭やさまざまの色の石があつて、面倒なばかりでなく、叮嚀にかくと時として平面のものが立體になつて石垣を積んだやうに見える、粗末に畫けば硬い感じが出ない、白梅と同じく大體の趣を採ることが至難である。併し河原は、日を背にして石黒く水白き時、または夕暮などは比較的容易で、特に砂交りの場處は大に畫きよいものである。梅の如きも早朝か夕暮などば畫き易いかもしれない。「太陽の光烈しき日中の寫生が旨く出來れば風景畫家として成功したものである」との言は吾人を欺かぬ。
 河原で困難をしたので、歐米の畫家にドンな風に畫いてあるかと外遊中は心にかけて探ねたが、わが多摩川原のやうな處を畫いた者は只一點見たばかりであつた、それも大なる繪の一局部であつて河原が主題ではない、英吉利でも汽車の窓から見ると河原も隨分あるのであるが、それを多く畫かぬのは、畫家が感興を催さぬばなかりでなく、畫くに勞多くして効少なきも一原因ではあるまいか、稽古は別として、一の繪とする上に於て、描寫に困難な材題を避けるといふことも、畫家の技倆のうちに數ふべきものであらう。
 梅と違つて、東洋畫では手もつけられぬ畫材で、寫實的の河原の畫は嘗て見ない。西洋畫では丸山君が比較的よく畫かれる、滿谷氏河合氏の近業にも河原の繪があるが、他の描寫に比しては大に劣るやうである、鹿子木氏の大作(昨年の展覽會に出でたるもの)は海岸の石であつたが、それも大ぶ批難の聲が高かつた。
 その夜東京へ歸り、二十一日國府津へ來た。
 二十二日、濱へ出でゝ船のスタデーをやつた。足柄連山新雪白く、それに觸れて來たか風の手は殊につめたい。
 新聞にある柳川一蝶齊の逸事のうちに、「手品は指頭の演藝であるため暇さへあれば練磨を怠らぬ、煙管を持つも菓子を摘まんでも茶碗を持つても彈き上げたり廻したりしてゐる、平素から斯ういふ心掛けの人であるからあれだけの名人にもなつた」云々とある。ロムニーは曰へり、「終日畫き終夜讀書する程の畫家にあらざれは平凡に終るべし」と。
 二十四日、大船で眞野氏に會し、鎌倉雪の下に大橋君をたづねた。此冬の旅行、湯河原に於ける大作は注目すべきものであらう。三四年前の氏の繪には、自然より直接受けたる印象が充分現はれず、氏自身にて仕上げた跡があつて、作品の表に上辷りのした處が見えたが、近來の作は大に研究的の色が加はゝつて、自然の韻が深くなつて來た。韓國遊覽中の作、北信に於ける秋の作、とりどりに面白く、其進境の著しきに驚かされた、專門に水彩畫に從ふの人少なき今日、氏の如き頼母しき研究者を友とする私自身の幸は云ふ迄もなく、斯道のれめにもまた大に喜ふべき事である。
 午後、眞野氏と共に長谷に三條邸を訪ひ、畫談に寫眞談に思はず時を消し、夜に入つて公爵一行と共に東京へ歸つた。
 二十七日夜、教授會のため研究所にゆく。丸山氏外遊前にて、自然是迄通り研究所に足近く來ることが出來ぬため、新に岡氏の協力を求めこの夜承諾を得た、これによつて吾々の事業の上に於ける前途の光明は一段の鮮を加へた。日曜日の一日は磯部氏も出席せらるゝ事となり、また研究所員中の先輩たる夏目、赤城兩氏も助手として授業を補助せらるゝ筈であるから、是からは講師の旅行等の際も差支を生ぜす自他のため大に都合よくなつた。
 この日『みづゑ』四十八の製本が出來た、十七面と十八面と反對に綴込んである、いつも乍ら製本師の不注意には困る。
 二十八日、研究所の月次會で、十時頃往つて『苦學と樂作』といふ話をした。午後からは丸山氏と岡氏との話があり、成績品の批評があり、薄暮散會した。この日の受賞者三人のうちの一人は横濱支部の田中氏であつた、別科生として賞を受けしは氏を以て嚆矢とする。
 

カツサン氏鉛筆臨本ノ内

 三月二日夜、雨後の泥濘を、例の大嫌ひな足駄で、谷中眞島町の太平洋畫會研究所の評議員會へ出かけた、集まるもの十名、六月一日より開く展覽會場は竹の臺陳列館と極まつた。四日、研究所の□□氏が來ていよいよ牛乳請賣を始めるとの話をされた、氏はかつて某會社に通勤し傍ら繪を學んでゐられたのであるが、專門にとの希望押へがたく、今度會社をやめて自ら勞働し、午前に研究所へ來やうといふのである。一生涯貧乏と大慨相場の極まつた繪を專門にやらうといふことは、兎角親達の好まぬ業であつて、□□氏も手痛き反對を受けたとの事である。私の希望としては、會社なり何なり衣食の道を安全にして置いて、好きなら一日一時間でも筆を持つとして、徐々に畫道を修められたらよからうと思ふが、年少客氣の際には、そんなマダルイことでは承知も出來まい、氏のやうに自活し勉強しやうといふ意氣があらば必す成功するであらう、此上は、あまり心身を無理に使役することなく、倦かずに研究を積まれたらよからう。
 自活し勉強してゐる人は世間に澤山ある、其自活の手段も樣々であるが、畫學生が畫によつて収入を得ることは甚だ危險であるから勸めたくない、苦心して寫生しものを僅かの金に代へるのは、自己の價値を下げるのであつて、將來のために面白くない、況んや賣らんがために畫く習慣がつくと、眞面目の研究が出來なくなる、カツトやコマ繪によつて金を得ることも、これを屡々するに於ては終には墮落して仕舞はぬとも限らぬ、既にそのやうな例は澤山ある、懸賞などを目的に始終仕事をしてゐると、自ら品性が賤しくなつて其方面に受くる害も少くない。眞に繪を愛し、吾が終生の心血を美術に捧げんとするの士は、苟旦にも成業に至らぬうちから、之に因て衣食しやうと思つてはいけぬ、繪は神聖の者として手をつけずに、他に金を取る方法を講じた方が安全であらう、私の如きも若し出來得べくば、他に生活の道を得て製作を金に代へたくないと思つてゐる。近來學生にして内職に心を奪はれてゐる人が多いとの事ゆゑ、こゝに一言した次第である。
 六日、初めて岡氏が教鞭を取らるゝので立會のため研究所へ往つた、コンクールの事とて一同一生懸命に勉強してゐて、其成績は平生より遙かによい、どうか此態度でいつ迄もやつて貰ひたいものだと思つた。
 午後茨木氏が來ていろいろ旅行談をした。山と海の比較、春と秋との比較などで、兎角春は眞面目な製作が出來ぬ、また京都や東京近郊などでは、同じく自然に對するこちらの態度が、ドウしても馬鹿にした氣になつて、一寸洒落た色や氣の利いたブラツシでも見せたくなり、全力を盡してやらうといふやうな心組になれないが、これが、高原とか深山とかへ行くと、自然は吾々に向つて甚だ嚴粛な顔つきをしてゐて、石一つ木一本も、眦を決して吾人の動作か看守してゐるやうで、自からこつちも眞面目にならずに居られない、例へば、春の小川の畔などでは、寫生しながらもウトウトと眠くなるといふやうな事もあるが、山中などに居ると、自然の威赫とでもいふのか、ボンヤリした心持になれない、それだけに製作にも力が入る譯で、このやうな境地に筆をとつた事のない人には、到底その趣味は分らぬものであると、圖らずも所感が一致したのは愉快であつた。七日、程ヶ谷へ往つた。春めいて梅も咲いてゐるが、道が惡いので室内寫生をさせた、材料は新しき番傘であつた。
 澤山見た寫生のうちに、色の貧しい繪があつた。冬の寫生畫――今は早春ではあるが――といふと、色は單純なものと極めて仕舞つて、其の單調のうらに、目立たぬながらも、複雜な意味のある點を畫かぬ。枯草があればヱローオークルを一わたり塗つでそれでよいとしてゐる、然し實際はそんなものではない、よく世人は冬を老年に比するけれど、老年は再び春に逢はぬが、冬は春の始めと言ふことが出來る、冬の黄な枯艸のうちには、時到らば萌出んとする、新なる緑の草の芽が、欝渤として潜んでゐる、此活氣ある力を畫いてこそ、冬の枯草の眞の寫生が出來るのである。觀察の密を要するは此處にある。外面のみを見て、自然の内部の生命に思ひ至らなければ其繪は活きぬ。
 或人の繪は、描寫がよく行届いてゐて、其繪に是と指して批難はないが、何となく垢抜がせぬ、面白味が乏しい、物一つ一つは巧に畫いてあるに拘はらず、物と物との關係が離れてゐて、全體として纒りがない。この原因は、いつも繪を仕上ることのみに苦しんで、物の感情を寫すスケツチをせぬためであらう。短時間のスケツチによつて、色彩の統一調和を學ぶことは、スタデーによつて、物質の研究を積む事と共に、畫に從ふものゝ必要なる稽古であらう。短時間のスケツチ、それば自から着彩を大膽ならしめ、運筆に活氣あらしむ、確りしたデツサンの上に輕快なるスケツチ的感情の現はれしもの、是が私の理想の繪である。
 晝の休にいろいろの話をした。或人は、自分の住んでゐる土地の風景が惡くて、繪にする處が少ないとコボす。成程材料の豊富な處の方が、確によいに相違ないが、併し物は取り樣心は持樣で、敢て悲觀するにあたるまいと思ふ。乏しき材料のうちから好位置を見出すといふこともよい、詰らぬ場處を寫して立派に見せるのもよい。同一の場處でも、季節により時間により天候により幾樣にもなる、一本の松でも、繰返し寫生して其眞髓を得たらよい、松ばかりを一生研究してもよい、よい場處で惡作を得るよりは、悪い場處をよく畫いた方が遙かに増しである。晴々しき製作をする時こそ位置を選ぶの必要はあるが、研究に場處の選り好みをするは寧ろ贅澤である。よい位置をとばかり求めて描いてゐると、段々増長して、彼處は詰らぬ、此と處は物にならぬと、容易に感興が起らなくなつて、終には、遠方迄旅行でもしなけれは、繪が描けないといふやうな惡習慣がつく、そんな人に限つて、偶々他から自分の近處へ寫生に來た人に鼻毛を抜かれて、オヤオヤこんな處があつたか、成程こゝは面白いなんて、俄に三脚を持出すやうな事になる。繪として美しいものゝ出來るのは、場處の善惡も多少の關係はあるが、要はそれを寫す人の手腕の如何にあるのである。そして畫材の乏しき處で、苦勞して好位置を求め稽古をしつけて置くと、よい場處の澤山ある處では、勞ぜずして面白い繪が得られるが、反之、いつもよい場處ばかりで寫生してゐる人は、少し位置が惡いと畫が出來ない。丁度苦勞人とオボツチヤンとの相違で、一方はゆく處として可ならざるなしであるが、一方はすぐヘコタレて仕舞ふであらう。それ故、面白い處がないから寫生が出來ぬなんて逃口上はやめて、却つてそのやうな處に住んでゐるのを幸輻と考ヘて勉強されたらよからうと言つた。
 

小笠島父島より母島に到る海上丸山晩霞筆

 ある雜誌に、一日三十里を歩行する法として「呼吸と歩調とを一致し、丹田に精神を落つけて、無念無想、足で歩行するといふことを思はず、腹で歩め」と説いてある。肉體で歩行するから疲勞を覺えるのであるが、この法によると、精神で歩行するのであるから、何里でもゆける道理になる。貝原益軒先生の『養生訓』によると、「讀書家藝術家は、臍下丹田に力を入れて事に從へ」と書いてある。畫には精神が入つてゐなくてはならぬとは古くから云ふことてある。筆先で描いた繪は、いかに器用に出來てゐても直きに見飽きがする。一生懸命眞面目に描いたものは、出來榮は惡くとも見て心持がよい。彩筆を手にする時の心の持方一つで結果に甚しい相違が生じて來る。片々たる輕薄なものを澤山こしらへるよりは、其數は多からずとも、全力を盡した寫生畫を作るやうにした方が得策であらう。
 日本水彩畫會研究所の例會では、其成績作品に對しで、品は僅かだが、毎月三個の賞が出る。賞に値する繪を選ぶには、其出來榮のよきを主とするのではなくて、寧ろ其畫に對する作者の體度の眞面目なるを取る方針である。それ故に先輩の巧な作のあるに拘はらず、往々後進者の見かけよからぬ繪に賞の落つることがある、つまり其作に精紳を籠めた人が勝利を得ることゝなるのである。
 午後五時、一同の寫生は終つた。汽車の時間迄『美術的繪畫と装飾繪畫との區別』を話し、この夜は國府津へ來た。
 この日の『朝日新聞』觀世某の話に、「謡は錦を織るやうに花々しくせず、白地に紋樣を織出すやうに目立たず床しくせねばならぬ」と言ふてあつた、繪畫を作るにもヤハリ此心懸けは肝要であらうと思つた。
 九日、曇つては居たが暖かい日であつた。朝から酒匂川の落口へ徃つて二子山を寫した、色の乏しい寒い繪が出來た。酒匂橋を渡つて濱へ出て、砂上に生へてゐる茅の枯色に興を催してスタデーをした、ムヅカシイが面白い。更に堤の上から、松原を越して入江のスケツチをした。まだ時が早いので、堤を上流へ數丁、淡い緑の藻の浮いてゐる池を見つけて寫生をした、背景は明神嶽で、農家の家根なども見えて一寸よい。
 梅は最早遅く、櫻はまだ開かぬ、到る處椿の花が紅い。野は漸くうす緑して、小鳥の聲にも艶を帯びて來た。
 關西に教職を執れる知友△△氏から手紙が來た、「アーチストたらんとの希望にてありしも境遇は之を許さず、「因て斷然教育者として立れんと決心した」と書いてある、私は大賛成である、君よ希くば最良の教育者たれ、由來畫家として修養を積みし人が、地方の學校に職を奉ずるは、境遇上一時の腰掛主義であつて、何日かは再び東都に旗上げぜんの意氣を持してゐるが、殆と刺戟といふものなき田舎住居は、自然安逸を好むやうになつて、漸くに初思を忘れ、偶々後進者の作を見、名聲を聞いて、最早及ばずと斷念し、終に詮方なしの教育家となつて仕舞ふのである。これ畫家としての墮落であつて、教師としては甚だ好ましからぬ先生である。△△氏の如く、断然一方に心を傾けてこそ、價値ある教育家が得らるゝのであつて、アーチスト尊きにあらず、圖畫教師卑しきにあらず、要はその執る處の職にあらずして、其人の品性の高下如何にある。且又、世にアーチストとよばるゝ人のうちにも、自己の製作によつて衣食してゆける人は、極めて稀であつて、其多くは、生活のために製作するのである。
 生活のために製作する、是即ち、繪畫製造人にして、普通職工とあまり懸隔はない、寧ろ教育家の神聖なるに如んやである。此意味に於ても、△△氏が所謂アチストのお仲間に入らざりしを喜ぶ。
 製作の動機が感興より發し、自己の滿足を目的とせずして、世に譽を求むる爲めであつたなら、其繪は美術品とするに足らぬとは、嚴正なる批評家の言ふところ、況んや衣食をや、金錢をや、されどアーチストも生活を離るゝ能はず、隨て非美術的製作にも從はざるべからず。若し前述の意義を歸納する時は、アーチストによつて美術的作品を得るよりも、素養深きアマチユアの手に、却て傑作を出す機會が多いかも知れぬ。即ち、アマチユアは、全然自己娯樂のために畫くことを得るもアーチストは、其作に幾分何等かの目的を含むことを免れざればなり。私は、△△氏が是迄養ひ得たる繪畫の技術を捨つることなく、教職の餘暇に稽古を積まれて、アマチユァとしての製作を試みられんことを望まざるを得ぬ。
 

カツサン氏鉛筆臨本ノ内

 十日は大雨、この朝數通の手紙を受取た、そのうちの一通にこんなのがあつた、
  一昨日冬期枯草につい ての御講義を伺ひまし たが今日エマルソンの ネーチユアーを見まし たらこんな事がありま して尚々感じました
  This inhabitants of cities suppose that the country landscape is pleasant only half theyear. I please myself with the grance of the Winter scenery,and I believe that we are as much touched by it as by the genial influences of summer. To the attentive eye eachmoment of the year has its own beauty, and in the same field it beholds, every hour, a picture which was never seenbefore, and which shall never be seen again.
  三月九日 ▲▲生
 地中の虫も穴から出て來る時節になつた。私も二三日中に此地を引上げて東京へ歸らうと思ふ。國府津に於ける二ヶ月、それは豫想程の利益はなかつた。富士見屋では最良の室二間を、私のために明けてくれた、食物の上にも、待遇にも、特別の注意をしてくれた、それに何の不平はない。私の東京の家は、其建てられたる場處の關係から、冬でも至極暖かである、國府津の宿は、西北に何の遮るものがない爲め、風の吹く日は中々寒い、併しそれにも別に不足は言はぬ。只困るのは、其室の暗きことである、否、室は通常の明るさで、南も北も西も開いてゐる私の困るといふのは、畫をかくに適當の光線を得られなかつたといふことである、その結果として、國府津に於て製作した繪を、東京へ持つて歸つて見ると、殆と別物のやうに異ふ、色が甚しく單調になり、輸廓が硬くなり、繪がわるく綺麗になる、そして黄の色が没して、緑は生々しく寒く見える、畫室を持たずしての室内製作は全然不可能の事のやうに思はれる。次は、天候の都合で、割合に戸外寫生の出來なかつた事である、もとより大作を試みんとの考はなかつたが、小品すらも僅かに十數枚を得たのみで、この位ひの繪はいつも四五日の旅行で出來るのである。こんな工合で、此度の轉地製作は失敗に終つたが、今のやうな煩雜な生活をしてゐたのでは、到底東京に居て實の入つた製作は出來ぬ、何處でもよい、粗末でもよい、畫室だけ田舎へ持つて往つて、食物はパンに鑵詰、夜は毛布一枚というやうな簡単な生活をして、氣儘に繪をかいて見たいものである。
 十一日、午後から海邊でスケツチをしてゐたら、藤澤の○○君が來た。一しよに停車場の後の山へ上つて、雪の大山を寫した。日蔭のためでもあつたか、畫面が乾かなくて困る。○○氏はと見ると、眞トモに日光を受けた一本の杉を寫生して居る。杉一本、それを寫さんとした心持はよい、複雜な景色をさけて、單簡なものを選んだのはよいが、何の面自味もなき此木に、正面からの日光で、圓味も見えず、色も單調だ、正しく畫くには馬鹿にムヅカシイ、直ぐ傍に、五六本の杉の、斜に日を受けて、形も影も面白く、さしてムヅカシクないのがあるのに、それを取らぬのは、ヤハリ經驗が乏しい爲めであらう。經驗なき人は、ヤサシイ積りで、好んでムヅカシイ材題を畫いてゐるものだと思つた。
 國府津もいよいよオサラバにして、此夜の汽車で東京へ歸ることゝした。(三月十一日夕)

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