寄書 彼岸櫻

長谷川利行
『みづゑ』第四十九
明治42年4月3日

寄書
  彼岸櫻 長谷川利行
  b:春雨が降り出す、水がぬるむ、朧月夜となる、長閑な若草の堤、そぞろに春の天地は開かれて而して、彼岸櫻は咲き初めた
  三月だ―文章家詩人、つづいて畫家、殊に水彩畫家は、如何な春の夢にあこがれて居ゐだろう、慕ふて戀ひて春な讃美する情は、彼が手腕を振ふて寫生するよりも澤山血潮の燃えることだろう。
  人は美しい、春雨に傘して通る人と云ひ、長閑なる岡に彳む人と云ひ、朧月夜の人と云ひ、明快なる春の自然の人を、水彩畫家は、確に他よりも多く煩悶して居るに相違無い、人が美しいのは、自然が麗しいので、人が美しければ自然も一層美觀を呈する。
  彼岸櫻が咲いて何となしに春だと云ふ心持になる、ぬるい風が靡くと春風だなーと思ふ、煙突の煙がただ靜かに登つて行くそれを長閑だと眺める位春の氣に成つた、春の氣に成つた私はもう醉つて居るかも知れぬ。
  斯やつて春が來て呉たからには、充分春の自然に親むで春を讃美したい。繪具の不足も整はせて、ワツトマン紙も購入し、水張もして、何時でも飛び出して寫生の出來る樣に用意する、やれ幽寂な霞だ、花曇の庭だ、菫の岡だ、柳だ、櫻だ、夜櫻だ、桃だ、菜の花だ、山吹だと、昨日は東今日は西に辿つて、繪筆と春と、春の自然と繪筆と戦はしたい。
  彼岸櫻が咲いて三月だと切に感した私は、春の人と化して、一日一日暮れて行くと、全盛の春が樂しい、けれどけれど、指折する今頃が、また過去に成つてから戀しいかも知れぬ。

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