解剖學の話

荻原守衛オギワラモリエ(1879-1910) 作者一覧へ

萩原守衛
『みづゑ』第五十
明治42年5月3日

△恐らく美術家に必要な學問でありながら、無趣味を極めたもは解剖學であらう。解剖のことを上手にお話するといふのは至難の業で、佛國あたりにはそれ專門の先生が面自く講義をしてくれるが、それでも聽いてゐるものは多く居睡りを爲て仕舞ふ、たゞ實地死體を研究する時には澤山集まつて來るが、これも半分は物好きに過ぎない。
△西洋で解剖學の講義をするのには、完全な骨もあり模型もあり、またその模型と活きたモデルと並べて置て、一々手を擧げ足を伸させて比較研究をなし、或は實地死體について筋骨の關係を説明するといふやうに、極めて完全に出來てゐるが、日本の今日ではまだ中々それ迄にはゆかぬ。
△それで、この不完全な設備の中で諸君が解剖のことを研究しやうといふなら、まづ骨から始めたらよい、頭蓋は一番ムツカシイから跡廻しにする、骨のうちでも一番解し易い簡單のものから始める、そして骨の形状を覺えるには實物があれば結搆だが、それが無ければ正確な解剖圖から模寫するとよい、たゞ見たばかりよりも、筆を採つて寫生したり模寫したりする方がよく覺えられる。
△まづ形を第一に頭に入れて仕舞ふ。その次は、その骨は何の爲めにあるのだとの研究、それから他との關係を調べる、骨の兩端にある(手足の指の先はない)圓くなつてゐる處、即ち關節、その闢節の工合で、何處迄曲るとか、何度位ひの角度迄廻轉するとかいふことが分る、すると一の足を踏張つても、關節の工合ではあれ迄前へ出ぬ筈だなんといふことが分るやうになる。
△骨と骨との關係が分ると、今言ふた通り運動の範圍が分る、それさへよく知つてゐればよい、骨の數が何枚だなんて細かいことは知らぬともよい、名なんか忘れて仕舞つても搆はぬ。
△研究するにラクな骨から始めて、骨のことがよく分つたら今度は筋の研究を始める。筋は三層に分れてゐるが、たゞ上層筋ばかり研究したのでは何にもならぬ、下層筋が基礎になるのでもあり、また往々下層筋が現はれることもあるから、まづ其方から調べてゆくのである。
△まづ下層筋から調べ始めるとして、これも骨と同じく最初に一つからやつてゆく、そして其一っをよく呑込んぞ仕舞づてから他に及ぼしてゆく。
△骨と骨、筋と筋との關係は、よく調べて置かねばならぬが、人體を描き出す上に最も必要なのは、骨と筋との關係だから、これは一番力を入れて調べなくてはならぬ。
△骨と筋との關係といふのは、即ち筋の附着點で、これさへ分れば運動の工合も知ることが出來やう。△昔しの大家で、ダビンシなどは非常に解剖に精しく、其研究には反古が澤山出來たそうだが、繪は別物で、其繪には肉も着いてゐれば血も通つてゐる。ミケランゼロは研究が有の儘に出た方で、胡桃を入れた袋だなんて惡口も言はれたが、それでも確りしたものだ。
△諸君が是から解剖のことを調べると、終にはモデルの肉體の上に見えない點迄も描き出すやうになるかも知れない、これは解剖に捕はれたので、繪として畫いたものに出ては困るか、稽古中は一向構はない、寧ろそれ迄熱心にやつて欲しい、畫の稽古は長いもので、ドーデ五年や六年は色に移らずに木炭で研究をしなければならないのだから、其長い間には、解剖に捕はれて目にも見えない物迄も描く時代があつてもよからう。
△一體日本人に神々しいやうな繪の描けないのは、このデツサンの研究が不充分だからだ、西洋人の畫いたものに間違のないのは、一生涯研究をやつてゐるからだ。ジユリアンの稽古場などに、白髪だらけの老人がコツコツ木炭を握つて勉強してゐる、繪が下手なのかといふとそうではない、賞牌の二つや三つは取つてゐる、日本人なら四五年でサツサとやつて仕舞ふのに、馬鹿な奴だと最初は思つたが、今になつて見るとやつぱり先方の方が伶俐だ。
△美術家になるのに土臺の研究が不足してゝはいけぬ、土臺の研究といふのはドロウイング、其ドロイングを正しく研究するには解剖が必要、結局解剖が畫の土臺になるのだから、面白味もなくムヅカシクもあるが、こいつは是非一通り調べて置かなければいけない。
△前にも言つた通り、解剖熱のため、一時モデルを畫いても解剖圖を描いたやうになるかも知れないが、その一時の弊は差支ない、それを通し越すと、後には解剖なんか忘れて仕舞ふ、忘れて仕舞つてもよい、元々知らないのはいけぬが、忘れたのなら根底の素養が既に在るのだから、無意識に畫いたものゝ上にも自然に正確な點が現はれて、來る。
△序に今日見た人物の水彩畫について心づいた事を少し言はふ、それは、こゝに並んでゐる繪の多くは、着物ばかり描いてあつて内部が畫いてない、右の肩と左の肩とどれ丈け前後してゐるかといふことが分らぬ、椅子へ腰を掛けてゐても膝よりも顔の方が前に來てゐる、一應身體を畫いて前後の割合を調べ、それから着物を着せるやうにしたらこんな誤りは起るまい。いくら顔の色が旨く出てゐても、着物の縞や前垂の模樣が巧みに寫せてゐても、そんな事は末で、土臺の形が整つて居なければ何にもならない、色の研究も結搆てあるが、まづ其土臺を築き上げることに諸君は全力を盡されたらよからう。(日本水彩畫會研究所例會に於ける講話筆記の要領)

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