靜物寫生の話[八]
大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ
大下藤次郎
『みづゑ』第五十 P.4
明治42年5月3日
△木炭畫は鉛筆畫に比して便利な點が多い、廣い部分を描くのにも鉛筆程に手間が掛らない、濃淡の調子も硬くも柔らかくも自由に出る、弱い淡い鈍い色を出すと同時に高い強い鋭い色も出すことが來る、そして黒と白との間を幾階級にも分つことを得るのは到底鉛筆畫の及ぶところてはない。
△繪の稽古に木炭畫の適當なるその一は補修改廢の自由にある、一片の稔りたるパンは一度畫いた紙を純白ならしむる事も出來る、暗い處を明るくするには刷色の一掃で充分で、濃い處を薄くするには指先で摩つただけでも目的は達せられる。
△も一つよい事には繪が鷹揚に出來る、鉛筆のやうな尖の細いもので潰してゆくと自然とコセついて畫がイヂけたがるものであるが、木炭は性質上伸々と出來る、運筆も活★になり從つて其繪に生氣も含むことになる。
△寫生すべき材料は石膏模型が一番よい。最初は單簡なる浮出模樣の類で稽古して、次は人物のレリーフ(あまり薄肉彫のものは困難)、それから胸像全身像といふ風にやつてゆくのであるが、蔭と陽部の判明したるものであれば必ずしも石膏像には限らぬ。
△一の胸像は、其置かれたる位置と光線の關係で、形を變へてさへゆけば數十枚の異なつたる繪が出來やう。
△白色のもので稽古が積んで、濃淡の工合がよく描き現はせるやうになつたら、何でも寫生して見るがよい、あまリ細かいものは面白くないが、室の一隅や勝手元の器物などゴタゴタと置かれてある復雜な場處は最もよい畫材であらう。
△今假りに石膏の胸像を寫生するとして、若し其寫す人が少數であつたなら、石膏像の背部に、何か一色の布なり無地の襖又は屏風でも建てゝ目的物を判然と現はすやうにすると、輪廓も明暗も鮮やかに見えて寫しよい。次に一の像を初めて寫す時は、なるべく其像の似せ易い力面から寫す事にする、即ち癖のある處を見取つて、其著しく現はれてゐる點を捕へるので、鼻の高い顔なら、正面から見るよりも側面の方がよく似るから其方から先づ寫生するのである。
△輪廓のとり方は鉛筆畫と異なつた處はない、初あは直線で大タイの形をとり、物體の位置を定め、上下左右の割合を正しく見て、それから角々をとつて曲線に直して、よく實物と比較して、間違ないと決まつてから虚線をパンで拭ひ取ればよい。但幾度も言ふ通り、輪廓に繪の基礎となるものであるし、また初學のうち放縦にして置くと將來大に困ることが出來るから、特に注意して正確に寫し取らねばならぬ。
△輪廓をとる時、割合を見るため分銅を使用してもよい、それは青錢なり何なり重いものに細い絲をつけて像に向つて下けて見るので、これによつて目頭から眞直に下つた處が口の凹みといふやうに、紙の上に 直線を引いて比較するのである。
△小さなものを、殊更に大きく寫す必要はないが、實物より小さく寫すことは一層面白くない、やゝ大き目の方が筆が伸びてよいと思ふ。
△木炭畫の寫生は必す畫架がなけれはいけぬ、不得止ば物に立かけて置てもよい、鉛筆畫のやうに膝の上や机の上では畫きにくい。
△木炭の持方に、鉛筆と反對に尖の方を上にして、拇指と人指さし指と中脂とで輕く持つ。細かい部分を描く時や綺麗に畫き上げる必要のある時は、屡々木炭の尖をヤスリ紙で細く尖らせる。
△輪廊が出來たら大タイの蔭と日向、即ち明暗を白と黒と二つに明らかに分つ、それから中間色を求め、漸く細かい濃淡を畫き分けてゆくので、其順序も主要の部分を先にしてゆくのは勿論である、即ち一の顔なら目鼻口といふものが先になつて、頭の毛や首のあたりは後にあるのでなるが、忘れても一部分から仕上て往つてはいけぬ、いつも全體に注意を拂つて釣合を誤らぬやうにせねばならぬ。
△描き方は鉛筆畫と同じく、線でもよく没でもよい、何れでもモデルを完全に寫し出せばよいのであるが、ベッタリと塗りつけたやうに畫くよりも、細い輕い線で段々調子をつけてゆく方が出來上りは面白いやうである。
△紙の上ツラを滑るやうに畫いて往つたのでは落ツキかない、それがため一旦畫いた處を、指先で押したり輕く摩擦したりして炭を紙に馴染ませる方法もある。また明暗の境を油繪筆を以て淡く暈すこともある。これ等の手段は、二三枚寫生してゐるうちに自然とよい方法を自得するものである。
△靜物畫の困難なるは、短距離の間に物の前後遠近の工合を描き出すのにある、景色では一里二里の遠近の關係であるが、靜物では一寸二寸の相違である、その前後の距離を畫き出すのは、たゞ光線の關係、即ち濃淡の調子一つにあるので、これによつて物の深味もマル味も見えるのである、木炭畫の稽古はその點に重きを置てあるのであるから、絶えず實物と比較して誤りなきを期せねばならぬ。
△スキ色木炭紙を用ひる時は、白紙と同樣に描いて其光部には白のチョークを用ひる。
△繪が出來上つたら、汚れた處をパンでよく磨り取り、霧吹でフイキサチフを萬遍なく吹きかけて置けば、木炭は紙に定着して剥落することはない。