畫室

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

汀鴎
『みづゑ』第五十 P.13-22
明治42年5月3日

 といふ程整つたものでもなく、また廣い場處でもない、ほんの仕事場であるが、私のこの仕事場には、思出深い紀念の品も置かれてある、また永い間には、多少記臆するに足るべき出來事もあつた。
 まづ外形から見やう。
 畫室は二階にある。疊を敷いたら僅かに十疊にも滿たぬ挾いもので、床にば粗末な麻布が敷かれて、其上に古い小さな毛織の布が二枚置かれてある。床の上にあるものは、机一つ、椅子一つ、本箱二つ、石油ストーヴ一つ、たゞそれだけ。
 天井は高い、床から二間もあらう、一面にボール紙で貼られてある。
  北の方から點檢しやう。畫室は多く天井から光りを探るのが例になつてゐる。私の畫室は北の方が何の遮るものゝないため、また室狹くしてあまりに多くの光りを要さぬため、北の窓から取る事にした。窓は八尺に九尺程の硝子張り、これで光線は充分に得られる。窓を越して。三四間先は目白坂の往還で、朝夕學生の靴の音は烈しいが、間は極めて靜かである。道路を隔てゞ八幡の社がある。私の處へ繪の稽古に來る人は、必ず此社内で、石燈籠や拜殿を寫さゝれることになつてゐる。社前には數百年の大銀杏がある、春から夏へかけて、若い緑の芽の出た時もよい。秋から冬へかけて、其葉の黄金の色に變つた時もよい。風を受けても靡かじと、枝を鳴らして反抗する態度も勇ましいが、一葉を着けざる裸木に、滿身の夕陽を浴びて矗として立てるさまも雄々しい。實にこの樹は、わが畫室の前に在て、私に向ふて日夕教訓を垂れてゐる、雄々しかれ。勇ましかれ。而して永久に大なれと。
 壁は淡くして深き茶褐色に塗られてある。窓の左の一部には、小さな水彩畫と油繪とが一枚宛かゝつてゐる。水彩畫は奈艮某寺の觀音堂ともいふべき處を寫したもの、三宅氏が、今から十七八年前の筆の跡である。色の強烈な、筆に力のある、見るから爽快の感を禁じ得ぬ繪である。その頃の氏の繪、それは現今の作に比べたなら、自然の觀方も粗末であつたらうし、色なども單純ではあつたらうが、併し何處となく活々した心持が滿ちてゐて、いつ見てもよい感じがする。繪はあまりに老巧になつて仕舞ふては却て價値がない、老熟な技巧のうちにも三分の稚氣は欲しいものであると、いつもさう思ふ。
 其下にある油繪は眞野氏の筆で、これも十餘年前の作、コツプに投け込みし二三輪の薔薇、筆にコダハリがなく、實に達者に描いてある、これも私の大好きな繪の一つである。
 窓の右の壁はやゝ廣い。上部に高く掛かつてゐるのは、獨乙人某の筆で、可なり大きな少女水浴の油繪の摸寫である。舊式の脂色の多い繪ではあるが、卑しい處の少しもなく、裸體畫としてに上乗のものてあらう。いま巴里に居る藤島氏の摸寫したものか復寫したのであつて、原畫を見ないのであるから、ドレ程異つてゐるか分らない、これも十數年前試みたものであつた。その直ぐ下にあるのは、橢圓形の眞鍮の縁に入つたコロム繪で、筆者は分らぬが、少女が小鳥に餌をやつてゐる圖である、畫の出來もよいが、小鳥に對する女の優しい愛情が嬉しい。
 窓近くある大形の寫眞は、ボストンの彫刻家キツソン夫人の手になつた『美音』とでも題すべき彫刻か寫したもので、先年の巴里博覽會で賞牌を得たものだといふ。裸體の牧童が角笛を吹いてゐると、足許に野兎が耳引立てゝ聞惚れてゐる圖である。夫人は、始め弟子としてキツソン氏の門に入りしが、二人巴里に學んで終に結婚したのだといふ。私のボストンに居た時には、屡々其趣味ある畫室を訪ふて、製作上の話を聽いたが、夫妻共極めて親切な人達で、此寫眞は他の多くの製作の寫眞と共に、来國を去る時紀念にもと贈られたものである。氏の家には、私の正面と半面との寫眞が預けてある、レリーフにして贈ると約されたが、爾來五六の星霜を經たが何の便りもない、美術家の約束、東西共このやうなものであるが、氏等に一時の嬉しがらせを言ふやうな人ではないから、いつか手に入ることもあらうかと氣永に待つてゐる。
 壁に東に移る。
 東の壁の中程には五尺に三尺程の窓があつて、黒い木綿のカーテンか垂れてゐる。窓を開けば、左は近く久世山の原より小日向臺、續いて砲兵工廠の森、それを越して神田駿河臺のニコライ塔、幽かに上野の森の一部が見え、右は、眼下に江戸川長蛇の如く、赤城の森より、飯田町九段の高臺、日本橋あたりの大きな家根が、高く低く、終に空の色と同じになつて境界が分らない。春は、新小金井の稱ある江戸川の櫻を、夏は、兩國の川開きを、秋は小日向赤城の林の色を、冬は、滿都の雪を見るによい。
 

母島桑の木山(ウド)の大木丸山晩霞筆

 窓に接して低い幅の狹い一間程の棚がある、そこに置かれてあるものは、小さな額、寫眞立、筆立、インキ壺、小さな石膏像、小箱、花瓶の類である。寫眞立は、岐阜の友人から土産として貰つた經木細工の二枚折で、其一つには中丸先生、一つには原田先生の御寫眞が入れてある。中丸先生は私の初めての師であつた。師事すろこと二三年、胃癌にて逝かれたが、工部省美術學校の出身で、肖像畫に巧みで、名も成し富も得られた。先生の家に、某外交官の許より譲受けたとかいふ英佛大家の手になつた水彩畫が十數枚あつた、私が水彩畫を試みて見やうとの心を起したのは、實に此繪を見てからであつた、その繪の多くは、今は東京美術學校にあるときいてゐる。
 中丸先生を喪ふて、私は原田先生に就いた。営時、先生は本郷五丁目に住居せられて居たが、折柄病氣であつて滅多に教場へは出て來られなかつた。私達は、その描いた畫を、先生の枕頭に携えゆきて批評を乞ふに過ぎなかつた。 モデルを研究しても、先生はそのモデルを見ずに、畫いたものだけを見て評せらるゝと云ふ有樣で、極めて不充分な教育を受けてゐたが、その先生も程なく他界の人となられたのである。私は實に師に縁の薄い人間だと思ふ。
 某海軍士官から贈られた伊萬里の花瓶には、白い一輪の椿が挿んである、椿は吾庭の崖際にあろ老木から採つたもの。その傍の燒畫細工の小箱の中には、古錢やら、外國の小銀貨が五六十枚入つてゐる、こんなものを意味もなく集めた時代もあつたかと思ふと可笑しい。その箱の後ろに立てゝあるのは、角形をした水色の團扇で、これは一寸形が面白いので、去年奈良の宿から貰つて來たのである。
 細い金の縁に入つたコロタイプの繪は、原田先生が、京都の博覽會へ出された素盞鳴命の八岐のオロチを退治する圖で、原畫はいま高田愼藏氏の家にある。これは先生が臥床の中に在つて筆を揮はれたもので、一のモデルも使はず全く想像から成つたものである、其後終に筆を採られなかつたから是が絶筆になつた。
 筆立の一つは通常の小甕、その一つは小笠原島産のタコの木で造つたもので、松山君のお土産である。中にほ油繪水繪の筆、扇子、刷毛、腕枕、其他さまざまのものが亂雜に入れてある。棚の上の壁には、ヒルデブランドの筆になつた瑞西湖水の水彩畫の模寫がある。この繪は獨乙で出版されたもので、版畫として申分ない出來である。それを原田先生の畫室で、夏の日毎日々々通つて寫したもので、汗の跡の見出せる、私にとつては貴いものである。傍らの小さなハガキ挟みには、七夕の繪葉書がある。在米松木氏の筆に成つたもので、詩の詞も嬉しいが、其色どりの沈んだ調子がよいのでいつもかけて眺めてゐる。
 一隅に、石簇が六個臺紙に結つけられて置かれてある。秋田縣下での發堀で、高橋氏から贈られたもの、數干年前の人の手に成りしものだと思へば何となく面白い。
 窓をを左に、橢圓形のレリーフがある。婦人の裸體で。新海君の手に成つたもの。その上には、松木氏のホズトン公園前の夕暮を畫いた水彩畫、その隣りには、私の最後に筆な採つた小さな油繪がある、十餘年前の秋、中川ベリ、平井の田甫で描いたもので、それ以來私は油繪に筆を染めぬから、是が油繪の絶筆になるかも知れない。
 レリーフの傍に長く垂れてゐるのは、信濃穗高山の麓の栂の林の中で得たサルオガセで、三尺を越えてゐる。このサルオガセを見ると、雪の嶺の高潔、梓川の水の清透、滾々としてよき感じが目先に現はれて來る。
 南に向ふ。
 南の壁には、東と同じ程の窓のほかに、小さきバルコニー――も大げさだが――がある。そこに立つて見ると、東の一部、赤城から牛込矢來の高臺が横はつてゐて、酒井家、並びに士官學校の森が遠く近く見え、西に戸山にまで連なつてゐる。其戸山の外れ、高田に近く、冬ならば枯木を透して雪の富士を見ることが出來る。
 前面、吾邸地の盡くる處、大なる樫★槻の林があつて、一部の見晴しを遮つてゐるが、是がため自然の輪廓が出來て、景がよく纒まつて見える。西の方にも、杉や槐や、種々なる巨木がある。其他、崖には椿多くして、春の紅をかたり、鶯頻りに啼き楓參槎として秋の色を飾り、百舌鳥鵯は枝から枝をわたつてゐる。崖の下は小流、島の如き林を越せば江戸川の本流で、大瀧はこゝから遠くはない。川の向ふには、古き水車小屋がある。四時杵の響と水の音は絶えない。
 水車小屋の先は早稻田、十年前此處に居を搆へし頃には、青田遠く連なり、榛の木技を交へ、茗荷畑に鍬執ろ人、水田に稻植える人も、此窓から居ながら眺むる風流もあつたが、今は好ましからぬ都會の膨脹とやら、日々殖えるものにトタン葺の屋根眞黒な煙突、たゞそれのみで、緑の草木に伐られ刈られて、やがてに跡方もなくなることであらう。夏の夜、風につれて家の中迄螢の迷ひこむといふやうな事は、この二三年來絶えてなくなつた。
 

カツサン氏鉛筆臨本の内

 左の隅に置かれたる書棚そこには百册ばかりの雜書が載せられてある、何れも金文字こそ嚴めしいが、さして珍書もない。書棚の下には、繪ハガキのアルバム十餘册、これとて何の誇るに足るものもないが、たゞ知友または未見の人から寄せられた肉筆のそれは、大切に挿んで置てある、年々歳々、其數は増すばかり、今はアルバムに入りきらぬので、箱の中に入れてあるものもある。
 書棚の上には、更に小さな四方硝子の棚が置かれてある。これは私の家のミユジアムで、三段の棚には、各地から集めた小さな玩具の數々が並んでゐる、シドニーで得た陶製男女の人形、上海から求めて來たといふ鈴木氏から貰つた支那刑人の木彫人形、奈良で得た鹿の置物、般若の人形、貝合せ、江の島の石細工の鵞鳥、宮島の木彫の馬、パフアロー美術館の女書記から贈られた鑄製の水牛、ボストンで出來た滑稽な土人形、寸にも滿たる犬張子仲見世ぐ買つた春駒、三保の松原で拾ふた黒石、常陸の海で手に入れた貝類其他數へ上げたら限りがない。私はこんな小さなものが好きだ。此嗜好はやがて私自身の小人物を證明するのではあるまいか。
 小箱の上には、陶製の花瓶があつて、それには菜の花が挿してあろ、これも崕の際の畑から採つて來たものである。
 其傍に立つてゐるのは、森脇氏より贈られた美人像。其下に横はつてゐるのは、濠洲土産のオーストリツチの卵に南洋の物産を彫刻したもの、見るから美しい。沼田氏から贈られた濠洲産の白い鸚鴟、それは去年の五月から飼ふてあつたが、この頃の寒さで終に斃れた。今は剥製やの手にある。やがて出來てきたらその邊に置かるゝ事であらう。書棚の上にピンもてとめてある繪は、三宅氏が最初の洋行から歸つて、三保の海岸に一しよに居た時の作で、初春の麥畑、松原、遠き愛鷹山、いつ見ても閑かな繪である、他の一枚は、米國のチヤーレス、エツチ、ペツパー氏の『たくらみ』といふ水彩畫で、大なる建物の欄に凭れて、二人の惡漢が何か相談してゐる、向ふは遠く森か見えて、空には黒雲が掩い冠さつてゐるといふ圖である。この繪に向ふと、一種腥惨な感が浮ぶ。
 壁を順に見てゆく。
 筆者不明の、香港市街を描いた水彩畫。大した強い色も用ひてないが、日南と日蔭との區別が實によく出てゐる、これは中丸塾に居る時模したもの。次に、小さな神代杉の縁に入つた牽牛花の繪、青梅に居た時、金剛寺の庭での私のイタヅラである。次は繪ハガキ、河合氏が常陸の旅先から送られたもの、墨で描いた色のないものだが、平野の景色が見えて嬉しい。隣りは、松木氏のボストンの海の寫生。大西洋の水の色を思ひ出させる。眞野氏の兜の寫生に、その傍にある。
 高く懸れるは、シドニーの畫家トム、ロパート氏から貰つた朝霧の油繪で、よく感じが出てゐる。ハガキ挿みには、石川氏のよせられた満洲の帆船一艘。小林氏の上總の繪馬。其下には、ミスター、キツソンの少年の彫刻寫眞がある。次ては、三宅氏のロントン、ハンプステートの水繪、沈着なよい繪である。
 南の一つの窓は明けたことがない。其窓枠の中に、一面の油繪がある。これは、原田先生が獨乙在學中、伊太利女のモデルを寫したもので、それを私が模寫して置たのである、原畫は色もよく調子も面白いが、模寫の力さへ充分なかつた時代であつたから、只この繪は其形を朧ろげに傳へるに過ぎないが、私にとりては一あつて二なき參考品として、大切にしてゐる。
 ヒルデブランドの水彩畫が二枚、一はヱジプトの市中を描きしもの、他はスペイン、セビラの都の塔、何れも強い調子で面白い。氏は百年前の水彩畫家で、一管の筆を携へ、欧洲全土から中央亞細亞、それから支那あたり迄も巡遊したとの事である。氏の畫は、市街や建物に次で、雲を寫すことが巧であるが、樹木の如きは不得意であつたらしく、感服するものを見ない。
 窓枠の一隅には、住吉で求めた小さなマネギがあろ。二寸程の染抜いた小さな手拭、それは愛いらしいものぐあるので、大阪の講習會へ往つた時、その一つを求めたら、これを見て我も我もと同行者は皆其店に集まつた。いまこの小さなマネギを飾つて、當時を思ひ出す人は幾人あるであらう。
 窓枠の一方の隅には、短册が一つ針で留めてある。「いざさらは散り行く花の跡追ひて神のみもとにわれ急がなん」錦陵と、水莖の跡美はしく書いてある。文字を見て其の辭世なることが知れやう。錦陵とは、私の親しき友早川銈太郎氏の事で、氏は九州の人、繪を中丸塾に學び、家事の爲め業成らずして中學の教師となり、東京より大分、福岡と轉々し、終に久しく肺を疾みて、三十八年の春久留米に歿した。文藝の趣味深く、友情厚き好青年なりしが、不幸世を早ふした。私はこの辭世の句を見る毎に、懐舊の情の油然として起るを禁じ得ない。
 此壁にはまだいろいろなものが懸つてゐる、寫眞器もある、双眼鏡もある、油繪水繪のパレツトもある、友人の寫眞もある、太平洋畫會の廣告繪もある、數へ上たら際限がない。
 西の壁。その大半は書棚になつてゐる。方六尺を越へたるこの書棚には、二重にも三重にも雜書が詰込んである、學問深からぬ身の、素より立派の書の在りやう譯もなく、讀めやう譯もない、有觸れたる繪本、美術書、文學書の如きに過ぎないが、併し、この書物の一册一册には、必ず忘るべからざる印象が殘つてゐる。
 

破驛大下藤次郎

 私の父に讀書人ではなかつた。母は文學の趣味もあつて、歌書物語本、さてはくさ草紙の類など藏して居られたそうだが、維新の際に殆と惣てを失はれたとか、私が文學を解するやうになつた當時、家には四書五經の如きを除いては僅かに一册の書物もなかつた。姉の女學雜誌を借りて讀み自分でも少年園の讀者になつた。それからはあまり多からぬ小遺錢の殆と全部は古本屋の店に運んで種々なる書を集めた。その頃私の樂しみは、實に繪を描くことと書物を讀むこと、ただそれだけといふてもよい。故にこの書棚にある書物千餘巻、それは群書類從と國書刊行會の配本の或物を除いては、一册として一度は目を通ないものはない、中には再讀三讀むしたものもある。趣味の變る毎に賣りては買ふ、斯して費した書物の代價も、私にとりては大なる負擔であつたが、讀み散らした其數もまた尠なからぬことであらう。ただ、學問の爲めに讀まずして、趣味の爲めに讀みし故、今に讀書によつて何等の利益を受けざりしは、大に耻る處である。
 書棚に隣りて三尺の出入口、それに隣りて押入、こゝには、額縁やら繪具をら雜多なものが押込んである。
 四方の壁の裾には、大小の額縁が立かけてある。それは何れも展覽會から返つて來た私の水繪で、年々歳々、古い縁のみ漸く溜りゆくのには閉口する。
 畫室は今から十年前に建てられたもの。その年の秋には、三宅氏が私の家で新に夫人を迎えられて、一時此室が新婚者の居間になつた事もある。三十五年には外遊を共にせし石川寅治氏が一月程住居はれた。丸山氏も郷里に在りし頃、時々出京して私の家に泊らるゝ時は、いつも此畫室を氏の寝室に宛てた、それは、氏は有名の早起であるから、靜かな處をとの家人の心遣ひからであつた。
 私の家の新年會は、いつも此畫室で開く例になつてゐる。其時に床の上に在るものは皆、他へ搬出して仕舞ふ、この狭い部屋へ二十餘人のお客であるから隨分窮屈だが、それがまた親密の度を一層深くさせるやうである。
 毎土曜日には、此室で授業をする。また訪ねてくれた人にも逢ふ。稽古に來る人に、事情あつて研究所へゆく事の出來ぬ人達である。松戸から來る竹内嬢最も古く、鈴木翁は、七十五歳の高齢でありながら、毎週缺かさずに來て勉強されてゐる。
 私の家に在る時は、大概此畫室に居る。繪の製作もする。『みづゑ』の原稿もこゝで書く。書物も多くこゝで讀む。
 食後または豫定の仕事の濟んだ後、室の眞中に長椅子を出し、それに緩やかに凭りかゝつて、好める書物を讀む時、これが、私の畫室に居ける一番樂しい時であつて、人から頼まれた、自分に不得意な繪を描いて、旨くゆかず、繪具皿をこね廻して嗟嘆する時、これが一番私にとりて苦しい時である。
  (四十二年四月一日記)

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