風景畫の二別(抄譯)

石川欽一郎イシカワキンイチロウ(1871-1945) 作者一覧へ

石川欽一郎
『みづゑ』第五十一
明治42年6月3日

 風景畫は之れを先づ二類に大別することを得べし。一は自然を有の儘現はさんとするもの。他は大なる全體の有樣を詩的化せしめて現はさんとするもの之なり。眞の寫實派の畫く風景畫は自然の一小部分をも忽がぜにせず誠實に一々其通描出するものにして。之には畫家が綿密なる觀察力を要するのみならず充分なる手腕の練磨をも要すべし。併し此派の短所としては其畫が誠に無趣味にて。唯見ゆる通りを其儘現はしたりと云ふに過ぎざれば觀る者にも何等の感興を起さしめず。單に綿密に畫きたる畫家の忍耐力に驚かるゝ外。其畫よりは何等學ぷべきなく悟るべきなし。元と感興によりて作りしにも非らざれば之を觀るも亦感興起らざるなり。尤も此種の畫の長所としては。自然の微妙なる箇所までも熱心忠實に一々畫けるが故。觀て面白味の多き事も亦大なり。例へばサー、ジヨン、ミレイス(英國美術院總裁)の作に就て見るに。實物の描寫は巳に完全の域に達したるものあり。其非凡なる視力に觀察の正鵠を誤らず。之に伴ふに練熟の技を以てする故。氏に依らば何物として傑作ならざるはなしと雖も。唯惜むらくは自然の變幻。深き含蓄。偉麗なる表現等に就ては未だ悟らざる處あるが如く。自然が毫も飾ることなき素顔の場合のみを毎も寫さんとは爲すものなり。とは云ふものゝ、自然の容姿を斯くまで精細に。特徴を捕へて。誤ることなく丁寧に描出したる畫は氏を措いては未だ嘗て見ざるなり。寫實派も此の如き遣り方にして又此の如き美術家の手腕を以てして始めて價値あり。將さに世の深き注意を受くべきなり。
 然れども。寫實のみに拘束せられず大なる眞髄を極めんとする風景畫は。殊に想像力に富める人之を觀て感動するものなり。畫家は元より寫實の技能を有するとも。之は單に我畫がんとする處を一層強く人に感ぜしめんが爲の手段として使用するに於ては。抽象的感念ある賞鑑家の歡迎する處となるべきなり。誰も皆ターナーを以てミレイスよりも大家なりと爲すは。敢てターナーが寫實に於て優りたりと云ふには非らずして。自然の一時的に見ゆる細部分には拘泥することなく。其偉大荘巖の樣を志せしに依りてなり。自然はターナーには常に微妙にして。雄偉寧ろ時には驚怖すべき幻の如く。又た崇拜すべき女神の如くに思はれたるものにして。苟且にも共に談笑すべき友達たらん如きの念は毫も非らざりしなり。
 去れば此差別を能く辨へたる畫家は。自然に接近することをせず隔たりて之を嘆美すると云ふは。餘り自然に接近するに於ては我尊重する感與を失ふの恐あればなり。畫家が自然に感じたる箇處は。到底我手の届かざる一物中に在るものなることを悟ると共に。若し其一物を我家に携へ歸らんには遠處より望める光輝は忽ちにして消滅すべきを知ればなり。夫れのみならず畫家が一度嘆賞の目的物を手に取るに於ては。崇高の念も嘆美の感も皆失せて何物をも其中に見ること能はざるに至るべし。去れば畫家は自然に對するに細部分に拘泥すろことなく。一に我理想に依り。俗念を絶ちて熱心製作に從事せさる可からず。茲に注意すべきは。餘り理想に過ぎては終には畫が毎も同一の型に容りたる如くなりて。漸く白然より遠ざがると共に終には毫も自然の俤を止めざるに至ることなり。思慮ある畫家は元より周到なる用意を以て此邪道に陥らざるやう自ら戒むるものなり。
 之に依り。想像を以て風景を畫く畫家の心得べき幹要なることは。自然を愛すべきこと。自然の状態を知り又た之を悟るべきこと。苟も自然の本道より逸するごときことある可からざること。熱誠を以て自然に隨ふべきを常に志ざすこと等なり。是等の心得の果して幹要なるや否やは。少しく畫界の情勢を察せば思半ばに過ぐるものあるべし。或者は唯寫實のみに拘泥して無氣力無定見に終はり。或者は理想に耽りて定軌を逸し型によりて畫くのみなる寧ろ笑止の状態にあることなるが。健全なる畫家も亦其間に尠なからずして。自然の最美なる有樣を擇んで之を表はせば。些の粉飾を加ふることなくして妙趣を彌々深からしむることを悟りて之が研究を怠らざるを見るべし。
 今や畫界に漸く重きを爲さんとするは即ち右の一派にして。想像的風景畫と無趣味なる寫眞畫との中庸を取り。自然の眞意を益々悟ると共に。此眞意に違ふものを除きて美的價値を完からしめんとするものなり。此派の作品を見れば。何れも健全なる理想により熟練なる技能を以て自然の長所を發輝せるを知るべし。即ち着想は近世的にして描法は進歩的なりと雖とも。其中に不安の跡なく突飛の嫌なし。古畫を敬重すれども之に束縛せらるゝことなく。今日學術の進歩と毫も隔絶することなきものなり。

この記事をPDFで見る