自然の約束

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第五十一
明治42年6月3日

▲自然界の現象事物には必ず干古不易の一定の約束がある、繪畫は如何なる場合でも自然を無視し自然を離れて成立することが出來ぬ、隨て自然界の一定の約束は必ず守らねばならぬ。
▲西洋畫の基礎は寫生から成立する、稽古をするのも寫生、人物畫風景畫、如何なる複雜な繪畫もその源は寫生であるから、この自然の約束は當然守られて居ろべき筈であるが、繪を學ぶこと深からぬ人の作には其不注意なる觀察によつて、往々にして飛でもなき間違を生ずることがある。
▲其間違ひの多くは、簡單なるスケツチを土臺として自宅にて作畫する人、または半成の寫生畫を勝手に想像の筆を以て仕上て仕舞ふ人の作に多いが、初めより終迄コツコツ現場で寫生して仕上た繪にも、この誤を隨分澤山發見するものである。
▲よく間違をやる例を少しく擧げて見やう、赤松のヒヨロヒヨロしてゐるのは多く山上のもので海邊には見かけない、これを海岸の景色へ畫くと不自然になる。青苔、即ち緑の苔は暗い日蔭の場處にあるもので、常に日光の射す處にはない、それを日南の樹木などに着けるとおかしい、旅人は樹の苔を見て方角を知るとさへ云はれてゐる。
▲銀杏の梢は(東京附近では)必ず北に曲つてゐる、これを南に曲げると不自然の感が起る。牽牛花の蕾とその蔓との巻方が反對なのは誰も知つてゐながらよく間違へる。
▲蜘蛛の脚、蜻蛉の脚の數も定まつてゐる。蝶の種類も季節によつて異ふ。實物を調べずに一寸添景に使つてそれが若し間違つてゐたら、折角の原畫に損害を與ふる事夥しい。
▲干潮沙上に舟の横はつてゐる處を寫生し始めて、そのうち滿潮になつたのに、舟の輪廓は曲つたその儘に、水を一ぱい畫いてある繪を見た。
▲明るい空に突出た梢や枝は、思切つて暗いものである、それを暗い背景のある幹の根元と同しやうな色で、薄く畫いてある繪は屡々見受ける。日に向つて輝いてゐる煉瓦の建物の背後の空は、深蒼の色を呈するごとく、明るき背景の前にあるものは必ず著しく暗い色に見ゆるものである。
▲田舎家などの古障子を外から寫すに、骨の處を暗く出しては間違ひで普通骨の處は紙の地よりも白く現はれるものである。
▲枝が茂り葉が繁りて重そうな樹の幹の、案外弱々しく細く描いてあるのも往々見受ける、風がなくとも倒れそうで不安でいけぬ、不安の感を看者に與ふるは忌むべきことである、幹は凡ての枝を集めた太さであるとさへ云はれてゐるのであるから、よく釣合に注意を拂はれたい。
▲水といふものは如何なる場合でも平なものである、即ち水平でなくてはいけぬ、(浪高き海も大觀すれば同じ事である)然るに物の映じた水面などに、其映り方の描法のため恰も高低があるやうに見えるのはいけぬ、水面は平であるといふことを忘れぬやうにありたい。
▲雲も遠近法の規則には漏れぬ、形の大小は、時として大きな雲が地平線近くあり、小さなものが前方にある場合もあるが概して注視點に統一するものである。
▲雲の例と同じく、飛鳥の如きも、水平線に近い程小さくなるのが普通である、それを日本畫のある者のやうに下の方の鳥を大きくして上を小さくすると不自然になる。
▲建築物の如き、透視畫法に合つてゐても、それはたゞ形の上の事で、色彩に遠近の區別の現はれぬのが多い、遠くとも明らかに現はれる色と、遠くなれば漸滅して仕舞ふ色もある、近いものは形が大きく、遠くなると小さくなるごとく、近いものは判明に、遠くなるに從つてボンヤリする、その色彩濃淡の關係を、無視してゐる繪は少くない。
▲例を擧げれば切りがないが、要するに、天然自然の定まりたる約束に違はぬやうに畫けばよいので、それには注意深き觀察が大切である。
▲一地方に於ける風俗や習慣のために生ずる特異の例は、敢て不自然といふことは出來ぬ、昔から人間の眼は三つあつた時代もなく、一本脚の鳥の居た事もないが、風俗の如きは時代により場處により一定せぬものである。
▲併しこの揚合にも想像は避けねばならぬ、關東と關西では荷車の形が違ふ、東京市街の繪に大阪の荷車を描いては變だ、東北地方の人の用ひるモンペイを、西南人に穿かしてはおかしなものになる。其時代其地方に限つたものは是非其場處の自然と合ふやうになさねばならぬ。
▲「畫家は例外のものを描かず、通例のものを描かねばならぬ」とはミレも言ふて居る、從つて偶然に起りたる不自然なる事象の如きは、殊更研究するには及ばない。

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