通信


『みづゑ』第五十一
明治42年6月3日

 一書拜呈仕ます
  先生にはいつも御清栄で遠くから大慶に存じて居ります、小生五月號に「畫室」を掲載されたにつきて感謝の意を表したいと思ひます、二三ヶ月前から、先生をはじめ春鳥會幹部諸賢の畫室の摸樣を漏して下さつたならどうか遠國に居つて東都を望んでゐる人々を樂しませる事が出來るだらう、自分にとりては昨年六月初めて馨咳に接した當時を想起して向上心を強からしむるから是非是非「畫室」の掲載を願ひ度、御忙しいなら先生の分だけは朧ろ氣な伯分の腦裡に殘れる印象によりて綴らうとかと思つた事がありました四月二十九日雨を衝いて一里半を徒歩で四半身二十六錢の鮪に餓えた腹を満たさうとしてゐる夕、水繪が届いた、目録を見て最も嬉しかつたは「畫室」といふ題目でした、三杯目の御飯を中止して閲讀むをして行くと先生や、畫室といふものに初めて接した昨年の有樣が彷彿として眼前に現はれ來る、畫室の四壁を見廻はしたが今度の御文の樣な細い點までは觀察が及ばなかつた。併し、石川先生のジヤンクの畫や石膏像等は眼に殘つてゐる何故客觀的に御書き下さらなかつたかと存じて少々殘念に思ひます。
 玄關をはいつて桃色鸚鵡に驚いた、この鳥籠の土臺になつてゐる旅行鞄は外遊當時の物であらう、畫室の入口が階段の直そばなので危險でないかと思つたり、机の上に置かれた除蟲菊の盆栽に感心したり、パレツトを見て、先生も油繪を描くのだなと考ひたり、小西のカタログを見て寫眞をなさると思つたりして畫室でキヨロキヨロしてゐると先生が御出になられた懇ろに御談下された事は今でも忘れられない事抦であります四壁に掲けてある畫の中では、ジャングの繪葉書の東傍にある波比場らしい船尾の少し見えて、豌豆の葉色をした海の見えてある畫が一番氣に入りましたあれを『みづゑ』の口繪にして下さると良いがとは今でも思つて居ります。
 北の窓の下半に掲げてある色布は、朝夕あの坂を通る幾百の學生の憾の種ねとなつてゐる、あの色布のあるために、畫室の壁にある畫がよく見えませぬ、私の友人で獨逸協會學校へ通つてゐるものがいつもいつてゐます、「アノ布がナイト良イナ」と先生が御作業中は左樣はいくまいが御用のない時はあの色布を徹して畫室を路行く人に見せられたら趣味の普及にも影響する事が多いであらうと愚考して居ります、こんなことをいつて御叱りを受くるは自信して居ります。
 殆と半歳も御批評を頂かず殘念と思ひ本月はと思ふて靜物二枚を仕上げ今一枚をと思ふ矢先の四月十七日、突然、校長といふ厄介な職務を命ぜられ、その爲め九年間の帳簿の整理、事務の引繼等のため二十日も過ぎ去りてまたまた機を逸し申しました、近く、當町女子部校を引受くやも計られず多忙に多忙と相成ますが圍碁も酒も煙草も嗜まない私は散歩とテニスと水彩とは又とない慰安でありますから今まで程には行かずとも引つゞきアマチテアとして研究をつゞくろ積りなれば不相變御批評を願度と存じます先日は本縣師範生參り、種々水彩畫の談を致し、同趣味の人の訪問し呉るるは惡い心地は致さぬものに御座います。
  四月三十日 □□□
  大下先生
  王案下

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