寄書 流行の弊

長澤北斗
『みづゑ』第五十一
明治42年6月3日

 一にも水彩畫、二にも水彩畫、近年の水彩畫流行は實に驚くべきである。畫といへば直に水彩畫を指す位、墨繪などは殆どひそんでしまつてゐる。雜誌などを見てもすぐに肉筆の繪葉書交換が目につく。水彩畫を知らない人は話せない世の中とはなつた。併し此の流行は一面面白からぬ傾向を生じて來はしないか。流行もよいが元來この藝術なるものが、衣服其の他の装飾品のやうに輕々しい流行を來しては面白くないと思ふ。否流行といふ言葉をつかはれるやうになるのは斯界の爲によろこばしくないことではあるまいか。
 一寸外に出ても屡々遭つてしかもよく目につくのは畫架、三脚をかついでゐる人である。我輩も少しは畫に興味を以つてゐるから、參考の爲めに畫く所を拜見したいと思つてひそかにあとをつけて見ることもある。どこか目的があつて行くのであらうと思つたのは、とんでもないまちがひ。只甲の通、乙の巷とかんばんをさげてあるいてゐるばかりである。そして女學生でもふりかへつて見ると大の得意。景色を賞するでもなく、寫生するでもなく重い荷物を持ちくされにして、かへつてしまうのである。ぶ★にも程があるではないか。これは極端な例ではあるが、とにかくかういふ傾向をうんで來たのはまことにざんねんである。一面社會のつみであらうがそればかりでもあるまい。水彩畫の流行に又商人の乗ずるところなり、ずいぶんひどい畫を敷及させてゐる。一寸繪葉書屋にいつて見ても、ずいぶん水彩畫の數はあるが、水彩畫といつてゆるしてもよいのは殆どない。原畫ですらあやしい畫蒙のかいたものを版がまた實に粗末であるから、できあがつた畫は原畫のげの字の趣もない。同一のもの二枚くらべて見ると、りんかくだけは、版であるから同一であるが、色の趣は春と秋、朝と夕ほど違ふ。これが地方の入の畫をならふ殆ど唯一の手本となるのであるから實に危險ではないか。これを水彩畫だといひ、之にならつてできたものも水彩畫だといつてゐる。殊に繪葉書などにある、極めて簡單な單調なものにならつたのであるから、出來上つたものは實に模樣の出來そこないの樣なものである。水彩畫といふ觀念これより外には出ないのであるから、心ある人がこれを手本にしてはだめだといつたところが何ともしかたがないのである。大家のかいた肉筆の水彩畫を本屋の店にでも一つなり二つなりおいて、大に彼等の眼を新にさぜたいものである。

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