靜物寫生の話[九]

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第五十三
明治42年8月3日

△この頃或人からの質問に、「畫家となるには、タトへ風景畫を專門とするにも、人體寫生を深く研究しなけれはならぬと聞いてゐるが、地方住居であつてモデルを得ること難く、この研究は出來ぬ、何かよき方法はなきや」といふて來た。
△人體はあらゆる自然の美を集めたものであつて、よし風景畫の專門となるにもせよ、これを研究しなければ充分に白己の感想を畫布の上に現はすことが出來ぬ、少年は春の如く老人は冬の景の如し、老人の骨格を充分畫くことの出來ぬ人には、冬の山骨稜々たる景色は畫けぬ、少年青年の裸體美を畫き能はぬ者には、軟風江をわたる春の景色は畫けぬといふ人がある。
△私は、それ程迄も人體の研究に重きを置くものではないが、最も研究に便利で、また最も困難なる人體を以て、繪畫修養の基礎とすることに異論はない。乍併、人體の寫生は誰れでも自由にといふ譯にゆかぬ。地方によつては、全く其研究の道を得られぬ處もあらう、されば何かそれに代はる者がなくては困る。
△それに代はる者は何か、即ち靜物寫生である。硬きもの、軟かきもの、乾きたるもの、潤ゐあるもの、其形、其物質、其色彩に於て變化を求め、これを飽迄研究すれば、必ずしも人體の寫生を爲さずとも、ある程度迄は繪の道を悟ることも出來やう、また、よし人體の寫生をするといふても、最初よりそれにかゝるのではなくて、少くとも一二年は、靜物たる石膏の模型な研究するのであるから、此點からいふても、静物寫生は凡ての繪畫を學ぶ基礎であるといふことが出來やう。
△靜物寫生は、如斯繪畫を學ふ基礎であるが、其靜物寫生を研究するには、前にも言へる如く、墨繪から入らねばならぬ、爰に於て、墨繪はまた、凡ての繪畫を學ふ尤も最初に置かるゝ土臺であるといへやう。
△日曜日に研究所へ來る人、土曜日に私の宅へ來る人のうちには、緩くり掛つて鉛筆寫生からコッコツ始める人と、先を急いで繪具を塗りたがる人とある、何れもアマチユアとして稽古さるゝ人達であるから、望むまゝにして干渉はしない、そして其結果を見てゐると、前者が一二年後彩筆を採る時には、輪廓も手早く取れるし、調子も整ひ、物の深みや遠近なども充分見える繪が出來るが、後者は、同し時日を彩色一方でゃつてゐたゝめ、絶えず輪廓に苦しみ、濃淡の調子に苦しみ、それがため彩色迄も間違つたものが出來て、同じ二年の研究でも其結果に非常な差が起つて來る。一方は正確に且迅速に出來、一方は緩漫にして締りがない。
△墨繪の研究の大切なことは、是でも知れやう、諸君は、正確に迅速に光彩ある畫を描かうと思ふなら、是非一通り墨繪の研究をして基礎を固めなくてはならぬ。
△そこで、墨繪の靜物寫生法の話は、鉛筆及木炭を濟ませたから、次はチョーク畫(クレオン又はコンテー)に就て説明しやう。
△チョーク畫は、古くから用ひられたもので、特に吾國では、明治初年の工部省美術學校時代では、木炭を使用せずして、この材料によつて、模寫も寫生もやらせたとの事である。それ故、今から十餘年前迄は、大慨これによつて寫生の研究をした。現今では、高等師範學校の一部に於て此形式を殘してゐるのみで、美術學校を始め、何處の研究所でも姿を見せなくなつた、唯、所謂肖像畫家と稱する人々が僅かに使用してゐる。
△この故に、木炭を用ひ得る人は、特にチヨークによつて畫くことを學ぶ必要はないが、その如何なるものなるかを知らぬ人のために、少しくお話をしやう。
△通常、チヨークには圓いのと四角なのとあつて、直径二三分、長さ二寸程ある、色は眞黒と赭色の二種で、鉛筆の如く光澤なく、又油氣も含んでゐない、質には硬いのと軟かいのとがある。
△チョーク畫に用ひる紙に、普通は畫學紙であるが、緻密なるものを畫く時、又は美しきを望む時はケント紙を用ひる、ケントは其色あまりに純白なるため、チヨークの黒きに對し調和上少しく卑しく見える、其他木炭紙へ畫くと面白い線が出來る、ワツトマンも使用に適してゐる、或人は日本の奉書紙へ畫いたが、上品の感じであつた。
△用具としては、擦筆といふものが入用である、擦筆は、セーム皮を細く巻きたるもの、また吸取紙新聞紙の如きを細く切りて巻き、先を尖らして用ひる。これ等は彩料店に販賣してゐる。其他、チヨーク挾み、チヨークを尖らすため、又は磨つて粉にする爲めの紙石盤、及び軟らかきゴム等である。
△紙は水貼にする方がよい。輪廓は鉛筆畫の時と同樣、硬い鉛筆がよい、チヨークを石盤にて磨り、粉となして、擦筆の先へ着け、濃い處から畫いてゆく、時として淡い處から畫く事もある。擦筆は細いのと稍太いのと、二三本は使用せねばならぬ。極濃い處や、細くして強い線などは、チヨークを其儘使ふ、淡い處をボカスのには、新しい擦筆で漸々擦り取る、又はゴムで消して其跡を擦つておく。
△物によつては、擦筆を用ひずチヨークの先ばかりで畫き上げることもある、擦筆を用ゐるとオチッキが出來て穏やかになり、チヨークばかりで畫くと勢のある強い感じが出る。
△畫きあげて後はフイキサチフでとめる。

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