美術談義 寫眞と繪畫(倫敦タイムス所論)

石川欽一郎イシカワキンイチロウ(1871-1945) 作者一覧へ

石川欽一郎
『みづゑ』第五十三
明治42年8月3日

 肖像として寫眞は畫と拮抗することが出來るかと問ふ人あるべし。中には畫は寫眞と拮抗することが出來るかとも問ふ人尠なからず。世人は多く畫の目的は寫實にあるものと考へ。寫眞ならば如何にも實際の通りに取ることを得べく只色彩が表はれぬまでにて寫實の目的は寫眞にて充分達せらるゝと思ふによれり。然れども寫眞なりとも往々實物とは甚だしく相違せるものが撮れることあるは人の知る處にて。之がため寫眞には毎も繕ひを爲す。之は獨り寫眞の外觀を修飾する爲めならず寫眞器械の不完全の點をも修飾するものなるが。寫眞は一色の中に實物の色彩と明暗の關係との双方を表はさゞる可からず。之が只光線の感觸によりて表はるゝもの故正確且つ完全に撮れることは中々困難なり。寫眞に限らず畫に於ても色彩明暗の關係を正しく表はすことは至難の業にして。已に幾多の畫法學説ありて。單に色彩と明暗の關係のみに止まらず。色彩と形状。形状と明暗との關係に就ても研究怠りなく。熱達せる畫家は題目に最適當なる方法を探りて。或は形状を主となし或は色彩を主となし或は明暗の調子を主となし。他を皆從とするごとき事をも爲せど。寫眞器械は元より斯る判別の能なければ。色彩も明暗も皆一處になり器械の働きにょり一色となりて現出すること故。現時の熟練進歩にも係はらず往々不結果に終らざるを得ず。去れば寫眞師としては成るべく寫眞に適する場合のみを寫さんと心掛くることなれども。之にては往々題目の要趣を充分に表はしがたき場合あり。近來寫眞に漸く印象派の畫の如き濛朧たる風に撮ること流行するの傾きあり。畫にては名家の筆によらば濛朧として分らぬ處に反つて何かの意味を表はし。題目に適するものあり。畫に於ては色彩も形状も同一程度の強さには表はし難きにより。色彩を主とすれば形状は從とせざるを得ず。若し肖像畫ならば目的は人物の性格を表はすが主なれば。色彩よりも形状を第一と爲す故形状を明瞭に表はし色彩に從となすべし。寫眞にては元より色彩を表はし難き故。人物を寫すに當りては性格を表はすを主となすべければ濛朧たる寫し方にては此目的に不適當にして。其結果は豫期に反するものとなる。故に寫眞の本來は主なるものを引立たしむる爲め他を從となすには非らずして。濛朧たるものに代ふるに成るべく明瞭なるものを以てすることにあるべし。畫には抑揚と云ふことありて。之により活動を表はし趣を加へて全局の融和を得せしめ。觀者には畫家が見たる處のみならず感じたる處までも思はしむるものなるが。抑揚を與ふる一方法として。畫には實物を取捨することあり。元より幾多の方法中の一法に過ぎざれども。寫眞にては此取捨より外には抑揚を與ふべき方法なき上。不必要なる部分は除去するを得べけれども。必要なる部分を一層引立れしむることは出來ず。修正は單に繕ひに止まれども繕ひは巳に寫眞には非らず。畫に於ては筆法により畫の趣な彌々深からしめ一箇所に觀者の注目を集めて他の箇所を逃れしむるが如きことを爲せども。之は元より名家に依り筆致と意匠と相俟たざる可からず。名畫の摸寫の如き趣のみは寫すを得れども。迚ても原畫の筆致の妙までも極むる事は難きにより原畫の通りの妙趣を表はすこと能はず。寫眞とても寫し方不完全にして大に原畫の價値を損するものなるが。寫眞にては畫の如くに抑揚か與ふること難く。之を音樂に例ふれば節は好しとも表情もなく感動もなきもの故。肖像としては到底畫と拮抗しがたきは明かにして。天然色寫眞が他日完全の城に達すとも尚畫に及ばざること遠し。畫に於ては美ならざる作品は即ち醜なれども。寫眞には本來美醜なく。若しあらば僅かに其表はせる圖柄なるべし。故に寫眞は名畫と競爭は出來ずとも凡俗なる畫とは優に對抗するを得べく。下手なる畫家の拙作を見て不愉快を惑ぜんよりは寫眞の方が大に希望に適すべし。殊に肖像畫の平凡なるものに至りては誰も之を嫌ふと云ふは。筆者の熱誠と技量とに欠くる處あるが爲めにして。若し寫眞ならば無論始めより斯かる要求を持たざる故。幾分にても意を滿たす處あれば即ち之に依りて興味を感ずるものなり。

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