たより


『みづゑ』第五十三
明治42年8月3日

 石川欽一郎氏より――本年は鎌倉にて御開きの趣、小生多分八月中旬頃歸省の考に候故或は間に合はずと存じ候が、間に合へば又々參會仕度候、此程別紙目録の通り臺灣總督府中學校を借りて展覽會相催候、寫眞も封入仕候。繪の分は一枚は相思樹(臺灣特有の木)の森、ワツトマン半切、一枚は川岸同八ッ切にて、何れも小生の出品に候。今回は佐久間總督初め文武諸官の來觀もあり、四百人程の入塲にて盛會に有之、追々鑑畫の趣味も加はり來りたるように候。
 研究生も新入生二三名有之、何れも二十前の青年にて且つたちの好きものに有之候。尚基隆の方にも六七名の同好者打寄り研究中の由にて、何とか方法を以て教授を受け度き志ある旨申來り候に付、汽車で一時間の地故、時々出張でも爲さんかと思ひ居り候、只同地は要塞地、併かも第一地帯にて、寫生中々出來ず大に困り居り候。中學校の方にも寫生班を設ける考へに候、巳に寫眞班は設立しあり候故、今後は繪畫の趣味を吹込む考へに候、一週に一時間の科目故迚てもまとまらず候、九月には圖畫教室新築相成候故參考品でも澤山に陳列して生徒に目の教育でもしたら幾分よからんと思ひ候。
 蕃界探險記は畫入りにでもして其内可差上候。 頓首
 丸山晩霞氏より――此の頃は失敬した豫定通り僕は三日午後十時發の夜行で出發した、この前、夜行で行つたときは、樂々寝て、眼醒めしときは長野に着いてゐたから、今回もそのつもりで、着て寝るものまで用意して乗り込んだら、越後邊に何かあるとの事で、非常に澤山の乗客で上野で腰を掛けた位置で動く事も出來ない混雜で、途中で乗車して立つてゐた人に比すれば未だ上乗の者であつた。一夜不眠で、四日は九時から師範學校の講堂で百枚以上の畫の批評をして、午後から裾花河原で六時頃迄寫生、宿に歸ると夏期講習の相談で十二時過迄起きてゐた。四日の晩に乗つた河合君を長野着五日午前六時に待つ筈であるから寝たと思ふたら下婢に起され、仕度もそこそこに停車塲に駈けつけやつとの事で間に合つて、榎本氏も同行で豊野に下車それから妙な馬車にゆられて、午前九時前に湯田中に着いた。此日は久しぶりの好天氣で、河合君は好運兒と思ふた。空は今朝は曇りて又しても降る、河合君等は田中より即時目的地の發補に向ひ、小生はこの地で講習等に就て書くものもあるから、一兩日遲れて登山する事にきめた。(下略)
 河合新藏氏より―― 拜啓小生五日午前六時長野着、同所にて丸山榎本兩君に出逢ひこれより同道にで、五日午後六時目的地に着仕り候。當地は思つたより高地にて樹木はゐづれも若葉の感じに候。白樺は到る處に散在して居て、中々面白く候。
 しかしシヲカラといふ小虫、殆ど肉眼で見へぬ位のものか非常に襲來するのでこれには流石の丸山君も大閉口に候。

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