寄書 讃岐の名所

三好生
『みづゑ』第五十三
明治42年8月3日

 白鳥松原は大川郡松原村白鳥郷に在り、白砂青松十三町歩、蒼々鬱々其幾千萬株なるを知らず、千尺の長松時に馬を繋ぐの昔を忍び、一尺の翠 誰れか太夫の宮に封ずるものぞ、月明にして風清きの夕樹間を逍遙せんか、蛟龍地に在り松花色緑にして衣衫染まんとす、花崗岩の華表は聳へて沿岸に在り、汀に遊ぶ水鳥の鳴音ゆかしき濵千鳥、海面水緑にして瑠璃を流すが如し、右に蕪越崎左は住吉岬相對峙し、前方に一つ島烟波の間に浮び、緑毛の巨鼈悠然游泳するかの觀あり、一帯の翠嵐小豆島万頃の海波、播州洋風を孕む帆前船、煙吐く蒸汽船、松籟濤聲に和し神韵を弄し、白鳥心無天に舞ふ。
  神さびて心そすめる白鳥のうら松風のことのしらべは
  (北村安雅)
  行末の榮をいのる白鳥の神の松原千代もかはらじ
  (黒田靈南)
 津田松原は大川郡津田町にありて、其内に八幡宮の祠あり、祠背の山を雨瀧山と云ひて羽立峠に連る、北の方播州洋を望み淡路島を雲烟漂渺の間に認む、山水明媚風光絶佳、數千の松樹白砂と相和し、天然の琴瑟を奏す、琴林の名あり。
  松原をたづねて吹くや夏の風 (秀葉)
  みちて干ぬ音は掠しき松の浪 (芝園)
  松原や扇をふしにおもひあけ (古道)
  十里青松一張琴、 盤根交錯斷役深
  晨昏天籟調聲律、 千古無人知此音
  (梶原藍渠)
 志度町は大川郡の西部に在りて、戸数千七百、小串崎其東を遮り、庵治半島は觀音崎を以て海中に突出すると大約一里、町の東端は眞珠島ありて(陸地につゞく)岩下數町の海中は遠淺にして深さ四五尺以て水浴に適す。
 志渡寺は補陀落山と號し、四國八十六番の札所の名刹なり寺記に據れば、當寺の創立は推古天皇の朝にありて、本尊十一面觀世音は薗子尼と云ふもの、靈瑞に感じ、觀音化身の靈の靈像を獲たるもの即ち是れなりと云ふ、草創の堂元は一間四面なりしが、天武天皇の朝藤原不比等大臣來りて堂宇を大にし名けて死度道場と云ひしが、持統天皇の八年藤原房前大臣更に大伽藍を修造し、僧行基を開基の主としたりと云ふ。
 志渡浦(又名玉の浦)
 「わが戀は妹とせあわす玉の浦に衣かたしきひとりかもねん」這般の情歌は以て玉の浦の天眞を描寫せしものと云ふべからず、寧ろ「玉の浦はなれ小島の汐の問に夕あさりする田鶴ぞ鳴くなる」(衣笠大臣)の古歌が、玉の浦の風景を實寫して餘薀なきを賛ずるなり、志渡浦とし云へば人先づ蜑女の珠採の事を聯想するならん、吾人は敢て名蹟の故事來歴を一概に抹殺するものにあらずと雖も、荒唐無稽の神奇談を徒らに盲信するものにあらず、地理山勢の美を賞せんか、暫く珠採の事跡を尋討するをやめ須らく讃岐奇材、百二十年前の萬有學者、平賀源内の薫陶されし風景なるを知れ、源内の玉の浦に對する風景眼と着想は如何ん、峨々たる五劍山峯、以て天體明星辰を觀るの天文臺たるの感を有し、海波渺々たる播州洋の水、曾て是欧洲大陸の彼岸を洗ひしものたるの觀ぜしならん、何人の撰に係るか志渡浦十二景を題目す、八栗層雲、志渡寺晩鐘、高島の晴嵐、恵遠鳴、鹽竈の夕煙、神池の群螢、津村の牧笛、珠島の秋の月、八浦漁舟、屋島の暮雪、汀原の白鴎、海士野夜雨と、夫れ風景眼の狹瞳にして着想の平凡なる撰者の見地以て窺ふに足ると雖も畫題としてすつべくもあらず。
  舟出して今こそ見つれ玉の浦はなれ小島の秋の夜の月
  (大納言忠玉)
  汐風や遠よる千鳥正の浦のはなれ小島に友誘ふ聲
  (公朝)
  汐みちて島の數そふ房崎の入江入江のまつのむらたち
  (曾行基)
  客舟一泊砂濱、 波上風明浮月輪
  遺哀千年海中王、 片宵清影屬何人
  (江村宋珉)
 八栗山、四國靈所八十五番の札所にして、五劍山千手院の在る所延歴年間弘法大師の開基にして、山上より四方を眺望すれば八ヶ國の景を一眸の間に収むを得、故に往古八國寺の名あり、五劍山、天下名山多し、富士山の如き其冠たる者海内奇峯に富む鋸山の如き其一に居る、名山と奇峯と併て之れを兼ぬるもの我五劍山に於て見る。
 峰分五劍挿雲端雨淬風磨影自寒 白日南高溟紫氣 何人携得倚天看 (尾池相陽)
 五振の劍身嶄然として中天を凌ぐ、知らず何の恨ぞ、天を刺んとす、突屹山、疑峨たる山勢は多く是れ奇岩怪石、或は疑ふ、神削鬼斧の痕、全山一點の塵を受けず、半塊の土を蒙むらず、夫れ名山たるの所以奇峯たるの所以。

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