寄書 買言葉

はせがは
『みづゑ』第五十三
明治42年8月3日

 野郎! と云ふのが賣言葉なら、何んだいべらぼうーと掛る言葉が買言葉である。
 この賣言葉と買言葉とは喧嘩の場合、物の賣買ばかりに限られ無い、この水彩畫に關しても痛切に用ふと面白い場合がある、が水彩畫には賣言葉と云ふものが少ない樣である、水彩畫に就ての葉買言と云ふことに字を並べて見やう、一髄斯なことを喋るのも、すでに野暮かも知れぬ、野暮と云ふ人は野暮だと云ふがよい、そんな事に買言葉をつらねる必要が無いから、いよいよ買言葉を吐く。
  『みづゑ』の四十八が手近かにあつたので、外の處は嘴を入れ無い、寄書のところを見る、買言葉だ、「余の水彩畫の初め」と申す丈句の内に、吾も斯の如く上手になりたい、然し人間は何事も勉強せねば上手になれるものでないのだから、吾々もこれり一生懸命になつてやろうと思ひ、これより前よりも一層勉めよ勵んだ云々と、今にさだめて上達せられて居られやう、そんな時に限つて上達するのが見える、けれども同文の終りに「水畫の君よ永久に導き給へ」とは、君水畫を導く位の決心で無けりや大成巧はむづかしいよ。四十九に『上手』と云ふのがある成程そうだ、上手になつて終ふのは、彼は畫が上手だと噂される、自分からも得意になる。奮發する、益々持ち上げられる、遂には自ら畫家を以て任じ、また人も許す樣になる、かくして眞實に上手に成つてゆくのだ、何事でもそうだが周圍の人に持上げられて受動的に上手になるのは、ことに畫は最も甚しい。『研究所日記』を讀むと、雨村氏は琵琶歌の得意な人で畫も得意に描いてる人と思つた、望月氏に對する鈴木氏の言ひ草が面白い、ブリたきや持つて行き給へ、僕も畫架よりブリの方が大切な品物だ、鈴木さんのオヤジさんは素敵な人だ、察するに錠さんに情の深い天眞な圖を描く情の人だろう。
 この度は五十の『最新の印象』に就て眞面目な僕の意見を聞かす、要するに少々買言葉を交へなけりやならぬ、第一最新の印象て印象の意味はあらうが最新の意味が解からぬ、近頃文章世界にそんな題目で書いて居るが、あれは最新と思ふが、そこで、繪畫と云ふものはことに西洋畫、自然の聲を重きに置かなけりやならぬ、人間の聲は第二位にも第三位にも下る奈邊に置かなけりやならぬ、人の心裡を深く描くと云ふことは、終極は人生に期すと云ふのは實際だが、人の心裡と云ふことは微細に研究して初めて悟るのだ、こゝを以て見ても自然を第一位に置くことは明白である、君の云ふもつと都會を觀察して人の心裡を深く描き出すことは、自然の聾を聞きて田園の聲をききて後のことであるから都會の聲も人間の聲も少いのでよいと思ふ、技巧と態度兩方ともそなはる人は眞の畫家たる價値がある。次にケーさんの『日誌』の末方は畫を描く人の個性が現はれて羨ましい、僕も七八人の友達と寫生旅行でもする時はいつも同感である。五十に就ては斯なものだ、四十七の『始ての寫生』に、これでもワツトマンと腹に思つた等ふるつて居る、察するに三時間もかかつた繪だと云ふが、家へ持つて歸つて見ると寒色だらけであつただろう、佐藤君の『我が寫生』は『みづゑ』に對するお世辭見たいで嫌だつた。五十一の『流行の弊』は水彩畫にとつて大した影響も無いだろう、何にしろ一寸と繪葉書店へでも行くと水彩畫らいしものが一つや二つに必ず掲げてある、或一部分の人な茶毒することは大したものだろう、眞實の原畫ですらあやしい畫家のかいたものを、版がまた粗末であるから、出來上つた畫は原畫のゲの字の趣もない、地方の人の畫を習ふ事殆ど唯一の手本となるのであるから實に危險である、これはまぬがれない現象である、水彩畫もこゝに到つて罪深い事である。かく、こんな買言葉を喋つたついでに、今年の一月から六月まで半ヶ年の寄書欄を見るとあまり振は無い、が前、前々に較べうと進境がある、注目すべきは後半期である、北斗さんや榎の人さん、どしどし研究した新らしい事を聞かして下さい。(完)

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