ラスキンの山岳論[四]

小島烏水コジマウスイ(1873-1948) 作者一覧へ

小島烏水
『みづゑ』第五十五
明治42年10月3日

 扨、ラスキンの年代記は、大概此位にして置きまして、ラスキンが藝術の批評家としての、立場と主張とを、一寸述べて置きます、が、これが叉容易ならないことで、ラスキンの著作時代を、二大別にいたしますと、第一は一千八百四十三年(天保十四年)から一干八百六十年(万延元年)までの十六年間で、この間ば專ら美術や、建築の評論に全力な費やしたのであります、第二が一干八百六十一年(文久元年)から、死ぬ前の退隠時代までで、この時期にも、オツクスフオルド大學の美術講座を擔任し ゐましたから、多少藝術上の述作もありましたが、併し此時代は、重に社會や経濟上の説法で、費やされたのあります。私がこれから御話をするのは、第一の時代の大部數の著作から、ラスキンの主張の要領を、至つて簡単に綜合したのでありますが、勿論盡くしたものではありませむ。
 元來ラスキンは、藝術上の批評から出立したのであるが、段々研究の地歩を進めて行く中に、生活の實在を離れて、何の藝術もないといふやうな考へになりました、それですから、分析的頭脳に於て、欧羅巴第一と、伊太利の、英雄、マツヂニイに褒められた程の人でありながら、唯理家に終らないで、藝術といふ複製品をも捨てゝ了ひまして、實入生といふ問題に、面も振らず吶喊するやうになつたのであります、この點から言ふと私はラスキンと、露西亜のトルストイと、酷だ肖てゐると思ひます、二人とも偉大な文豪で、そして豫言者であります、二入とも傍観的態度で製作する藝術を、もどかしがつて、實行家になりました、トルストイは貴族であり、ラスキンは富豪であります、共に社會の上流に立つ人でありながら、平民的で、叉博愛的な事業を行ひました、と同時に、生ひ立ちが、さういふところへ持つて來て、藝術家肌の、氣随氣儘秘加へてゐますから、激し易く、怒りッぽいところも似てゐます、人類の幸福といふことが始終念頭を離れませんで、時代の習俗や、権威に極力抵抗したために、非常な崇拝者があろと共に、他の一方では、強敵を控へて、悪戦苦闘をつゞけたところも、似てゐます、只だ違ふところは、トルストイに酸いも甘いも舐めつくした苦勞人で、罪悪の深い淵へ堕ちてから、浮き上った人でありますが、ラスキンは始めから終まで、清浄潔白、死ぬときも、八十一歳の御坊ッちやんとして、世を去つたほどで、情に弱い、涙脆い人でありました、この區別はやがて、トルストイが、情★に表裏ある人間か深刻に解剖する小説を書くやうになり、ラスキンが虚心に自然を受け納めて、自然の聖書ともいふべき『近世畫家論』を出すやうになつたわけで、トルストイが闇黒人生から始まつて、光明を得、やうとしてゐるのとは反對に、ラスキンは光明自然から始まつて、闇黒人生に振り向いたのであります。トルストイは岩のやうな人で、皺の多いだけ大を成すわけですが、ラスキンは珠のやうな人で、少しの疵をも忌む風があります。
 かういふ風に、ラスキンは人生の豫言者である前に、先づ自然の豫言者として、立つたのであります、さうして自然の縫つた天衣を、人の前で、絲を一本々々施して見せ、その色彩を説明して聞かぜ、最後にその衣に潜んで、呼吸をしてゐる靈魂を示現したのであります、自然の書籍から意義の新らしい言語を綴つて、今まで自然に對して盲であつた人々の眼を開けたのであります。實にラスキンの『近世畫家論』の出る前までは、世間一般の人々には、雲の形態の美くしさも、山の威嚴も、牧場の草の光澤も、知らなかつたといふより、見えなかつたのてあります。
 ラスキンの意見によりますと、大藝術は讃嘆である 只今ではさうは言はれませぬ寧ろ反對な傾向を有つてゐますが、ラスキン時代までの藝術史は、概してさう言つても、差支ありませんでした、藝術は作家が愛する物象に、大なる魂の情感を寄せて、表現し表ものである、大なる繪畫は、情感のない手から決して生れたことが無い、画家は示現する前に、崇めなければならない、と言つてゐます。さうしてラスキンは、何を崇めましたといふと、自然に對する開眼であります『ヴヱニスの石』(この本は、ヴヱニスの建築を論じたもので、大体の主旨は、藝術は國民の生活から、切り離したときに亡び、生活と密接な關係を有するときに、榮えるといふのにあります)第三巻で、かう言ふて居ます『學術は知り、藝術は生む、學術は物を、在るが如くに扱ひ、藝術は物を魄を揺かす通りに扱ふ、一方は事實を見るのであるが、一方は現象を捉へるのだと』申して居ます。
 學術が知るものであるごとは、大體異存の無いところであるが、藝術が生むといふことは、解釋次第で、意義が多様になります、生むとは、創造することか、それとも發見することか、此頃日本でも、白然派の有力なる作家から、小説家は創造してはいけない、發見するのでなければならないといふ議論が出ましたが、ラスキンの意見も、白分を空虚にして、絶對に白然に服從して、内部に潜める大意義を看取するのにあつたのである『畫家論』の第一巻に、英國の若い畫家を教へて『心を凡べて単純にして、白然に向へよ、白然を信じて、骨を折つて、一緒に歩め、どうすれば、最もよく白然の意義に透徹するかといふことを考へる外は、何にも考へるな、何物をも排斥するな、選擇するな、侮蔑するなと』叫んでゐます、又自己といふ小主観を斥けるために『大作家の力量は、白己殲滅によつて示されてゐる』と言ひました、正しく崇めるのは、正しく知りたいためで、正しく知るのは、力のある美くしさと、眞實の感情を、示したいためであります、ラスキンの起る前までは、古人の手法は尚ばれても、白然の公則は怠られてゐました。放縦白在なローマンチツクの藝術のために、智識は蹂?されてゐました、「智識の威嚴」は、文藝繪畫では、始めてラスキンのペン先から、雲となつて展開もし、山岳となつて聳えもいたしました、ラスキンは叉、『洞察は眼の力に平均し、感情は魂の深さに比例す』と、喝破してゐます、人格の無い金言は、兵力の無い外交と同じく、効果の無いものでありますが、實際ラスキンの白然観察は眼の力と魂の深さとに依つて、白然の秘密の深さに、錘を入れたのでありま寸、『大藝術家は模倣家でない、彼の強力は、誤謬のない摸倣のためでなく、白然の大なる眞精神の表現にある』といふラスキンの説も、自己殲滅、白然服從の境地を一旦通過してから、始めて唱へられたのであつて白然の大なる眞精神といふのは、此頃の語で言へば、小主観を沒却して、大主観を透影的に表現するといふのに、當りませう。
 ラスキンあ立つた地盤と『畫家論』の出た時代とは、確にラスキンを要求したのであります。當時の英國藝術の権威を集めてゐる、ローヤル、アカデミイには、几庸畫家が、古い頭で――否、頭が土臺無いのだから、古い技巧で、古い畫を染め返へしてばかりゐる、淺薄な古典趣味の日耳曼輸入畫、それでなければ和蘭派の糟粕を舐めて居たのであった、ラスキンはこの摸倣、蹈襲、爛醉、倦怠の時代に向つて、原始、特立、自覺、動揺の時代に回轉するための、第一石を下したのであります、御手本と公準則は、自然それ自身であつた、味方が自然である限り、ラスキンの主張は、正確であり、眞であり、純粹でありました、雲や、石や、水や、土や、植物に對してまでも、當時の批評家や畫家の、類型化を極力非難して、個性表現に努めたのも、今日から見れば、當然なことで別に新らしくもありませんが、その著るしい一手段でありました。虚偽不正の作品は、片ッ端から破碎されました、★慣に囚はれて、氷の下に靈魂を凝結させて、安心して堕眠を貧ぼつてゐた先生方は、ラスキンの一撃で、巣をッゝかれた蜂のやうに噪ぎ立て、唸り出しました、さうしてラスキンの論理の矛盾撞着、審美學の不熟、或は其文章の誇張、立証の不完全を詮索して、罵★嘲笑を加へました、ラスキンの敵は最早、其時代の畫家でも、批評家でもなく、悪手本を後世に貽した、古人であります、數百年來の舊慣因習、そのものであります、ラスキンは古今に濁歩して戦ひました。
 併しながら、いかなる辯難攻撃も、此青年豫言者の『自然に返れ』といふ根柢は、遂に揺かすことが出來なかつた、此人が深く掘れば、掘るぼど、前人が夢にも想はなかつた、自然の純泉が、滾々と湧いて來て、その反論者は、ラスキンの手から、漲らされた思想界の大潮流に逆らひ得ず、反對論者の最も頑強なるものすらが、僅に藁の如く、潮流の上を漂つて、時勢に押されたり、揉まれたりして、走り去つて了ふといふ次第になりました。自然を在るが如くに、客観するといふことは、何もラスキンに始まつたことではありませぬ、ラスキンは、少年時代に地質學の論文を書いて、博物學雑誌へ投書したり、氷河の成因に就いて、專問の理學者と、議論を上下したりした程ですから、天象、地文、植物、其他に就きまして科學上の智識を、深く有してゐたに相違ありませぬ。現に『アルプス山の地質及び植物』といふ本を書く計畫があつたと、自傳に述べてあります併し智識の深淺を比べたら、以上の科學者が、随分當時にも、多くあつたに違ひない、然るにラスキンの『近世畫家論』第二巻の或部分は、フツカアといふ、第一流とは言へない科學者のスタイルに倣つたと自白して居る程でありながら思想の革命が、それ等の先生から生れて來ずに、ラスキンに至つて全欧洲を震憾したのは、何故かと言へば、科學者諸先生のやうに、純粋に宇宙を機械的に見ないで、人間普遍の愛美の性情と一致して、可感的に見たからであります、客観的に分析して見るといふことは、一體なら、非熱情的、非興奮的にならなければならない筈でありますが、それがラスキンの頭が、豫言者、詩人、革命家といふ三稜鏡で成り立つてゐるから、對象の白然が、ラスキンの科學的智識といふ燒匁を通じて、各其一角に反照して美くしい色と、燃えるやうな光を發したので、一たびそれに觸れたものは、ラスキン熱に罹るといふ有様です。
 併し熱は醒めるものです、ラスキンの崇拜者から轉じて、倦厭者になつたものも、頗る多いやうです、高ッ調子と熱情は、冷静に、嚴粛に判斷すると、殆んと空氣の動揺が残るばかりで何も留めないことがあります、併しながら、又、ラスキンの議論から手の届く限り、短所と缺點とを堀ぢくり出して、その損害の總容積を計算するとしても、假に、もし十九世紀の思想界、文學界、美術界に、「ラスキンが無かつたら」としたらば、どうですか、我々の頭には、忽然と大きな穴が明く感じがするではありませんか、凡そ人の眞價を量るのは、其の人の存在が、有つたとして考へるよりも、無かつたとして考へた方が、早解りがいたします、東海道の族行に、富士山が假に無かつたとしたら、裾野の拡大も無いわけで、如何にその方面の旅客は寂蓼なことでありませう。自然と人間との中間に立つて、正直に、精確に通辯してくれたラスキン先生が、假に無かつたとしたら、自然と人間の精神的交渉は、恐ろしい斷層を發見したことでありませう。
 ラスキンの藝術上の批評は、今日の自然派の基礎を作つて居ます。ゾラだの、フローベルなどといふ先生が人事描寫の方面で成したところのものを、それより先立つて、自然解剖の上で、遂げたのであります、今では自然派の土臺の上に、印象派が起り、象徴派が起り、其他の新らしい何々派が起つて、ラスキンの唱道したやうな、単純虚心自然描寫主義は、既に古臭いものとなつてゐるかも知れませぬが、併しラスキンの★へたとしましても、その★へた方面は高調子といつた刺戟剤、情熱といつた防腐剤のやうな、性質上一時的のものが、人間自覺の當然の結果として、★へたので、その以外のラスキンの眞骨頭は、古生層の岩石のやうに、比較的不朽なものであらうと、私は信じます。
 ラスキンの藝術上の事業といつては、天オ畫家タアナアを紹介したり、ラフヱール前派の、ロセツチ、ミレース、ハントを救助して、この少數の團體を、美術上の大勢力とならせたり、古人ではフロレンスでアンジヱリコを發見し、ヴヱニスで、チントレツトーのやうな隠れたる天オを堀り出して、復活させたりしたことで、他人には此の内の一ツでさへ、えらい事業です、それを猩々、猩々を知るといふ格で、ラスキンは一人で仕遂げました、猶その上に、白然に對する人間の眼を開けて、藝術上の絶大な運動を起しました、此方面に於ける全世界の趣味眼を、一變いたさせました、タアナア以下の天オが藝術史上に生き残る限り、ラスキンも永久に生存するでありませう、否、これ等の人々が滅亡する時代が來ても、空や、雲や、水、花、海、山などは亡びないから、少なくとも、山や雲の出浸する限りは、ラスキンは永久に憶ひ出されませう、その『畫家論』は、白然の聖書、十九世紀の福音、散文の叙事詩であります、初めはタアナア紹介といふことが、主になつて居たやうですが、後には、批評家から説教者と、豫言者と、歌謡者に、變りました、さうして諸ろの智識が齎らす支流や、分水が、集合されて、それがタアナア紹介といふ本流よりも、却つて大きなものになつて、眞と美といふ無邊無底の國を美くしく流れて行きました、かういふ本は「一時の本」ではありません、現に畧ば一世紀後の今でも、盛に讀まれてゐることは、年代の威嚴が保証をしてくれたのであります。
 私が其内の山岳論を摘んで、紹介に兼ねて、一寸した批評をいたしますのは、山岳は前にも述べました通りラスキンの最も好んで、又最も得意な観察をしたもので、自傳にも『雲と山とは、自分には生命である』と言たほどでありますからラスキンを研究するには、畧ぼ代表的な題目であると、考へられるからであります。

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