長野支部水彩畫夏季講習會

支部委員
『みづゑ』第五十五
明治42年10月3日

 我日本水彩畫會研究所長野支部は本年五月を以て漸く社會に生れ出しに過ぎず、其基礎甚貧弱なりと雖も、しかも熱誠斯道の研究を怠らさる會員は、眞面目を以て會務の擴張を計り、一日としてこれを忘るゝの日なかりき。嘗て本縣に於て、丸山、大下、河合三氏の指導のものとに二回の講習會を催し大に本縣洋畫界の振興を來せしの前例あるにかへりみ、本支部成立後第一着手の事業として、第三回の講習會を開催せんことを計畫す、幸にして丸山、河合兩氏の快諾を得たれば、六月初旬より會員の募集に着手し、七月下旬より二週間、長野市に於て開催に决定、會員一同奮て會務に當る。
 斯くて七月廿九日を以て始められぬ、會員は學生あり、敎育者あり、官吏あり、實業家あり、各其業務こそ異なれ、趣味を同ふするもの本縣及干葉、神奈川、栃木、茨城等より來り會すうもの左の如し。
 岩上義秀大日向直盛土屋和義五十嵐判次青木都之輔水野鼎藏松澤克己内川金重小林進角田ひさじ武田芳雄藤森楸西澤建吾皆藤★三細野順耳吉澤三末武田新太郎南澤萬龜治半田弘野本文雄高山完中川吉平小田中與七郎正村熊三郎關正造苅部六郎丸山寅治岡村總介伊藤五郎眞峰豊治宮下一紀長井肇治 窪田琢三 傳田精爾 清水茂三郎 騨谷常太 市川浄金井義司尾臺治郎二小林保則幅山壽久十泉歳之助草川傍町川清太郎津金元治柳澤晋芳川廷輔森本兼之亟和田芳郎齋藤金造成島吾一松本秀茂小野賢司酒井牧男志村こがね小林國弘篠原新三青木秀夫大澤左一坂口文夫以上
 かくて午前九時より長野高等女學校に於て其開會式を墾く、開會の辭に次て講師の談話及授業の豫定發表あり、終て直に實技に着手せり。
 講習の日程は毎日午前八時より一時間乃至一時間半の講義を終りて實技に移り、午後二時迄室内寫生、午後二時よりは郊外寫生をなし、又會期中に於て一回の遠足寫生族行をなす豫定なり。
 講師の熱心なる指導により、炎熱燬くか如きにかゝはらず、熱誠なる研究は朝來一旦畫架に對すれは飲まず吸はず、發汗の滴るをも知らずして只時の過くるをのみ憾むの有様なりき。
 室内寫生のモデルとしては主として果物、器物、花卉、塑像等なりしも、時に元禄模様の振袖に鼓、舞扇を出したるが如き、或は貧乏徳利に大根の如き、域は巨大なる木魚の如きは、最も會員を驚かしめ且つ苦しめたるものなりき、會員は能く着實にその研究を遂け、技巧の上達大に見るへきものあり、されど又多數會員中には、着手の當時大氣焔を以て始むるも、中頃に至り遂に失敗に歸し、木魚を畫きてムキタテの髑髏と變し、石膏の塑像を寫して青銅像と化し、白木綿の敷物に破れたる西瓜を畫きてアルプス山上の血の池地獄となりたる滑稽も亦★からざりき。
 又、午後の郊外寫生は、或は山岳に、或は森林に、渓流に、指定に從て蝟集し、任處に三脚を据え、日暮に至りて始めて筆を擱くを例とせり。
 八月九日午前七時、會員各七ッ道具を携へ、三々五々當布を去る一里許なるぶらん堂の浴場に向ふ、着後第一番に染筆せられしは、河合講師の白地の渓路に灰色の樹木の陰を留めしスケツチなり。夫れより會員は、思ひ?に其筆を揮ふべく、各其撰ふ處に向て突進し、各其得意の箇處を寫して、代々?批評を受く、中には又他人のスケツチを巡廻見物に出掛けるあり、或は浴し、或は畫き、茶を啜りて快談を試むる等、好みに從て清遊を試み、日暮涼風に迭られて各歸路につく。
 斯くて八月十一日に至り、芽目度閉會式を擧行せり。當日來賓として、知事を始め、其他多數の紳士の來臨あり、特に知事よりは、實技練習の必要及美的趣味の向上は、國家發展の要素たるの祝詞あり、叉別室には、會員の作品四百餘鮎を陳列し、各概評の后、普く衆諸の縦覧に供し、午前九時より午後三時に至るまで數百名を算せり。
 式後、別室に於て講師の慰勞茶話會を開き、數番の餘興及會員の隠藝等あり、殊に當時市内に於て興行中の新俳優義正團員の劒舞の如き、世界の動物園の如きは最も喝采を拍したり。午後六時よりは、有志會合して、市下城山館樓上に丸山、河合兩講師の慰勞會を開き、午後十時歡を盡して退散せり。
 本會主催の夏季講習會は右の如くにして全く終りを告げ、豫期以上の成績をあぐることを得たるは、實に本會の光榮とするとろなり、これ畢竟、丸山河合兩氏の熱誠以て本會のためにつくされたる賜ならずんばあらず、特に丸山氏が、會期中病を冒して、一日約十時間以上指導の勞をとられ、河合氏が家庭の去りがたき事故を拠ちて本會に臨席せられたるが如き、又本部研究生榎本君が自己の研究のために費さんとする貴重なる夏季休暇を捨て、丸山氏を援けて會員の指導に盡されしが如きは、本會の最も感謝するところなり。(支部委員)

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