出雲崎講習會の記
大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ
汀鴎
『みづゑ』第五十五
明治42年10月3日
△本年五月初旬、出雲崎尋常高等小學校々長長谷川氏より、水彩畫夏期講習の講師として來遊を促して來た、本年は日本水彩畫會の講習を鎌倉に於て開く事になつてゐるので、謝絶しやうと思つたが、長谷川氏の斯道に熱心なるは、其依頼状の字句にも現はれてゐるので、遂に動かされて、八月下旬一週間でよくば參上しやうといふ答を出した、こんな譚で、いよ?八月二十二日から、越後出雲崎に於て水彩畫の講習會を開く事になつた。
△私は、八月十玉日鎌倉から歸つて、九月號の『みづゑ』發行の準備をすませ、二十一日の朝出發、同夜柏崎に一泊、翌日午前出雲崎に着いた。會場は町端れの高臺にある學校で、日本海を眼下にして眺望がよい、長谷川氏の盡力で凡ての準備は整頓してゐた。
△出雲崎は、北越海岸に在つて可なりの町であるが、如何にも交通が不便で、鐵道線路を距ること何處へも六七里以上、それも砂濱又は峠を扣へて、人力車も二人でなくては輓けぬ處もある、越後は國が廣いが、かゝる不便の地であるから、會員は澤山はあまいと思つてゐた。
△然るに。豫想外にも申込は四十餘名に達してゐた、會員は、小學教員、師範及中學生等が重で、無論縣下の人々であるが、他縣としては、岐阜から二人、群馬から一人、秋田から一人來てゐる、そのうち差支欠席の人もあつて、實際席に列したのは左の諸氏であつた。
小栗富三郎宇野泰吉櫛淵雄須賀品田七太郎道川謙次永越信次内藤鐵吉細川喜一八田倭雄丸山徳三郎岡村傳一郎樋口健次松永龍三安達宗次庭山丑太郎塚田興司伊比見作横山安明鷲頭政一青柳清次小林正平秋山順一河野保藏岡村順次小松文吉渡邊啓次遠藤平八郎鷲頭新策高橋俊三片桐眞一山岸泰之助高橋浦次郎安達福次渡邊キク齋藤ケイ永原ヒデ長谷川善作阿部金治永瀧文一郎渡邊喜衛治以上
△彌よ二十二日午前八時から授業を始めた、鎌倉と同じく午前一時間講話、三時間静物寫生、午後は三時より日没迄戸外寫生をやらした、又、夜の講話も試みた、會員一人の遅刻なく、最終迄欠席者なかりしは、其熱心の度を推するに難くはない。
△静物寫生の材料は、書物に酸漿、南瓜、喬竹桃、ビール壜、三脚にスケツチブツク、コツプに梨等で、背景の布は多く白を用ひ、まゝ海老茶又は鼠の布を用ひた。
△戸外は、諏訪紳社境内、蛇崩海岸、三角堂、町裏海岸にて親船等を寫させた。
△會員の多くは、初めて規則立つた寫生をするので、第一日は甚だ成績が惡かつたが、翌日よりは著しく進歩して、往ゝ優秀の作を成した人もある。たゞ一般に、用具不完全なるため、其技の見るべきものあるに拘はらず、其結果の艮好ならざりし人のあつたのは惜しむべきである。
△かくて、一週間は夢の間に過ぎた。幸びに天氣續きであつたし、また絶えず涼風が吹いてゐたので、暑氣に苦しむことなく、二十八日午前、批評を爲し、同時茶話會を開いて、正午目出度散會したのである。この講習に於て、私は鎌倉以來の疲勞のため、充分の力を盡すことが出來なかつたのは、遣憾に思ふ處で、この點は會員諸君に御詫を申上げ、同時に、長谷川氏が、卒先して熱心盡力せられし御厚意を謝し、尚出雲崎町有志が、此講習會に同情をよせられ、多大の便宜を與へられしことを爰に深く御禮申上る。(汀鴎)