蝉時雨(鎌倉)
『みづゑ』第五十五
明治42年10月3日
■鎌倉はお初にお目にかゝつたが失望もしたり満足もしたり、失望はモットよい處と思つてゐたから、満足は講習の面白かつた事■白状すると僕はこれでも國では御自慢の方で、内心得意でゐたが、他の諸君の繪を見て少々參つた、其上講話をきいて見ると、水彩畫も中々むづかしいものといふことが知れて少なからず鼻柱を折つた■由井ヶ濱の寫生、あまり早く起きたので再寢をしたらモー皆んなが出掛る處で驚いた■この朝の腹の減つたこと非常滅法、時間はまだ八時だつたが腹だけは三四時間も先走してゐた■ヘト?になつて濱から宿へ歸つたが二十町もあるので更に大凹み■首ばかり前へ出て腹は脊に引着いて仕舞つた、横から見たらさぞ妙だらう■日はちり★照りつける、先生の脚は馬鹿に早い汗はタク?一生涯を通じての大苦しみだ■まさか■ねむい?この頃の眠さは曾て覺えがない■あまり夜更しをするからよ■不圖眼をさますと皆起きてゐる、寝てゐるのは二三人だ、向ふの二階に先生が起つてこつちか見てゐる、極まりの悪い事絶頂だ■誰れだか一寸顔を出したが直ぐ夜具を冠つて、仕舞つて、其儘障子の蔭へ逃込んだ人もある■起きてこつちを見てゐたT先生はまだよいが、M先生は來て蒲團をまくるのは手酷い■随分面喰つたね■一タイ先生達は朝は無やみに早い、誰だつてT先生より先へ起きた人はなからう■五時前といふのに大きな嚏がきこえる、あれはM先生の起きた謹據で近處で評判だそうで■會員の體裁こそ見ものだ■K、M君の和服クネタイ、それはあまりキレーでもない手拭を首からぶら下げてゐるのだ■一寸チョーホーなものだとさあ■■これが傳染したから妙だY、K君も始めた■まだ誰かもやつてゐた■M、M君の笠と來たら奇抜だね、あのカラダてあの坊主笠、どう見ても諸國巡禮のお寺さまだ●S、S君の帽子は鼠に喰れたとかて穴があいてゐる■あれは空氣抜だとよ■夏向は腦が悪くなるからとは苦しい言譯さね■僕はそんな言譯はしやしないよ、■T、H君の海水浴帽も空氣抜のためかね■空氣抜ならよほど御念の入つ象ものだ■I、K君やK、E君S、Y君など建長寺連はドウ見ても方丈様スタイルだ■建長寺を選んだものも無理はないね■神社の柱や天井に貼つてある納札を剥がして、寫生箱やスケツチブツクに貼ることが流行した■この元祖はT、N君で、寫生箱には五六枚貼つてあつた■どうもよく剥がれないものさ■自分で製造したのもある■納札剥がしも大流行を極めたが、物を捨てるをも随分流行したね■まつS、S君が丸屋の横で筆を捨てた■あれは故意だとさ、後世S、S畫伯の筆捨横町とよばせる爲だとさ■あな恐ろし、あの御腕前で■失禮なことを申すな■會場には久しくスケツチブツクと雌黄の大きな固りが捨てゝあつた■池の中ヘワツトマンを捨てた人もあつた、甚しいのは停車場の近處で五圓札を捨てゝ、閉會迄居られなくなつて歸國した人もあつた■鎌倉へ來た途中に無暗に金を捨てゝあるいたゝめ、安い宿を尋ね廻つてゐた人もあるさ■オトツサンは大切の?傑作、杉林の寫生畫を宿で捨て眞青になつてふさいてゐた■あの繪はよく出來てゐたのに惜しい事をしたね■海岸て手に持つてゐた繪具箱を砂の上へ捨てゝ、思切りわるくも拾ひ上けたが仕末に困つた■僕はこんなに繪がマヅくつては大に悲観せざるを得ない、アー由井ヶ濱へでも身を捨てやうか■由井ヶ濱は危険だ、滑川にでもしたまへ、そしてなりたけ近處に人の居る時にね■八幡の池へでも身を捨て-、鯉や鮒と一しよに麩でも喰つてゐた方が氣樂らしい■江の島行は面白かつた■電車の中でM先生の案内口上、御自分では案内者のおつもりだらうがあれでは料金は出せないね■料金といへは岩窟の巾で案内賃思召といふから三人で一銭やつたら妙な顔をしてゐた■蠑螺の壼焼と申すもの再び喰ふなかれだ、あの壺に残つた汁を一しよにして次ヘ?と出すのは驚く■誰れの喰剰しが這入つてゐるのか知れぬ■何百年前からのもあるだらう■江戸時代の汁などは恐入るね■桟橋で橋銭をゴマカシた人もあつたけな■岩の上でステントーとやつて尻を濕らした若い男女を見た■會員でなくて御仕合せ■誰れかヤッたかも知れないよ
■お仕合せといへばY、K君の自地の單衣の肩のあたりへ黄色い松脂をベタリつけてゐた、すると之がわ尻の近處でなくてお仕合せと誰やらが言ふた■江の島行の朝、風が寒く雨が降りそうなので下へ着込んで往つた連中は、風なし照つけのヂリ?暑に大閉口■文房堂の番公は愛嬌者だつたね■脚氣のために道を歩行くに幾度も休むのはよいが、鶴ケ岡や頼朝の墓の石段を見上げて屹度『マタニシマセゥ』といふ■此愛嬌者が下座敷の八畳に陣取つて飯を喰ふとき、其の座敷の眞中にチヨコンと座つてゐるのは中々オツだつた■多分店ではゴチヤ?と大勢の中で小さくなつて喰つてゐるのだらうから、こんな時だと大に威張つて見たのさ■あまり皆でヒヤカスのでトウ?座敷の隅の方へ退却した■それでもワイ?言ふので仕まいには障子を締めたよ■障子の穴から見えるぞと吐鳴つたのもあつた■この人だよ、氷屋へ往つてレモンヱローを呉れなんて言ふたのは■ナニ、レモンを入れてくれと言つたのさ■嘘々、そのあとてクリムソンレーキなんて言つたぢやないか■生蕎蓼をナマソバと讀んだ人もあるさ■イキソバと解した人も居たよ■僕は勢のよい蕎蓼と思つた■『赤ムジサルス新着』この看板を見て何と判じるね■アカムジサルス?解らんなア■面倒だからきいて見たらサルマタとの事だつた■其後通つたらスの字にマタと假名がついていた■踏切を通らうと思つたら、汽車が來て横に棒が下つた、やがて汽車がまだ通り過きぬうち急に棒が上つたから溜らない、この棒に腮を載ぜたり腕を載せて、口をポカンと開いて汽車を見てゐた連中の其驚き!■随分パツク式だつたね■この近處にある源座こそ振つたものだ、野天よりか増しだといふが野天の方が屋根の落ちて來さうな心配がなくてよい■この中へ入つたら歸りは着物を捨てゝ眞裸體で家へ入らなくつちやいけぬとさ■何故々々■蚤が澤山で其儘着て入つたら其夜は取殺されて仕舞から■マサカ■車艦拜見に往つた連中にも多少奇談はあるよ■水交社で窓掛の開閉に驚いたのは誰れか■連中一同に御座候■午後の一暗過いよ?宗谷鑑を拜見した、甲板は焼つく様に熱い、そこを素足だから溜るものか、甲板に居るうちは兩足を交る?上げては耐えてゐた■説明などは耳に入らない満身の注意は足の爪先に集つた■中々奇観だねコレをデツキダンスと申ます■當人の身になつて見たまへ、そんな洒落たものではないア、熱い!■八幡社前の鐵棚の中に熊が居る、誰れも畫かぬやうだ■まつH、K君が畫くべきものだらう、あのスタイルがよく似てゐるから吃度よく感じが出るよ■丸屋の夜程面白い愉快な場處は他にはあるまい■僕は曾てこんな面白い経験を持たない■講習がモー一ヶ月も續いて呉れゝばよいね、畫は好きな繪をかく、夜は氣の合つた友達二十人ア、死にたくない■随分藝人も居るがS、S君、M、K君、H、M君、T、H君なんが頭領株さ■書間うつかり繪でも罵倒しやうものならそれこそ大變夜になると散々にいためつけられる■花王シヤボンなんて口達者も居るからね■學校で出席簿の點呼の時奮つた聲を出すのはG、S君■五十人は其顔の如く聲も異つてゐるから面白い
■M、K君の聲もオツなものさね■二日の丸屋同宿茶話會は何だつてアンナに遠慮をしたのだらう■文房堂がカツケダンスでもやればよかつたに■カツケダンスにデツキダンス随分よい取組だ■九日の全員茶話會は奮つたね■腹顔山人の舞踏も絶倒さゼたが、オトツサンの口上も上手だね■活動寫眞の説明者にしたら吃度大喝采■何でも淺草の奥山に十年も修業したのだそうな■M、T君の『薩摩琵琶』は正に是れ天下一品■H、M君の京阪辯の講釋もよかつた■T先生とH、T嬢との『對話』は何かと思つて片唾を飲んだよ■あまり眞面目なので少し驚いたね■閉會當日オトツサンと洗濯屋サンとが羽織を召しての御出席は物堅い■ナアニ寫眞を撮るので一寸メカシたのさ■他でもオメカシした人もあつた様だ■別れの茶話會も面白かつたが僕は悲しくなつた■『動物園』は吉例だそうだがアレは實に不思議だ■H、O君のアノ驚きやうつたらなかつた■M、K君の『仕方話』はキザな身振だね■T先生の『巡禮』は舶來だらう■M先生の『即席寫生』は御手際なものだつた■以上、見聞子、よしこの生、目鏡の人、M、M、M生其他無名氏の投書及會員の直話抜粋
(編者)