日本の隋處隋録[中]

鵜澤四丁ウザワシテイ(1869-1944) 作者一覧へ

鵜澤四丁譯
『みづゑ』第五十六 P.18-20
明治42年11月3日

 スワラから遠く無い庭で、木曾川の畔に、大きな偏平たい巖があッて、『ネザメノトコ』といふて居る。これは日本の『リツプヴアンヴインクル』ともいふべき、浦島とい渉漁夫の子が、長い失紳から生氣に反ッた庭としてあるのである。・あ話の筋をいふと、浦島は日本の海淺ユラといふ庭に両親と共に漁夫をして居ツた。或日船で乗出したま\蹄ツて來ぬのて、浦島は死んだものとしてしまツた。浦島は海耐の娘に逢ふて、姫と共は互に愛し愛されて、常盤の國に往ふことになツた。幸薦のうちに藪週間を暮した積であツたが、遂に『わが父母がこれを心配するであらうから、蹄ツて慰めなけれぼならない』ので、しばしの間忍んでくれいといふてこゝを出立した。その時姫が浦昌に小匝をくれて、いふには、何時まてもこの匝を開けなければ、儂は御身と共に離れない、もし開ければ儂も常磐の國も永遠に失せてしまふ。浦島は實際數百年を過ごして居ツたので、自分の家はいふまでもなくなくなる、ユラの物は皆憂ツて居ツた。浦島は失望落謄して、禁せられた箱を開くと、暮のような蒲碧い煙が立上ッて海に清ゑると、紅顔の美少年が忽ちに老年と化して、暫時にして海岸に倒れて死んでしまツた。箱の中には姫が二人が幸輻な生涯の時を封じてあッたのであツた。
 中山道では、ミドノ附近位美麗な庭は他にあるまい。谷合が挾くて、路傍には木曾の奔流が隠見し、樹木が豊富で、胡桃、槲、栗、楓等が路を覆ふて、また竹の大林が吹上くる谷間の風にそよいで居る。川畔にも立派な樹木があツて、既にお馴染のもあり、また目新しいものもある。鶺鴒が岩から岩へと飛廻はり、燕が電線へ線を爲して止ツて居るので、秋の近きを知らせ顔であツた。
 

小笠原父島大村より奥村に到る途松山忠三筆

 中山道からハシバへと轉じた、こゝはマゴメ峠への上り口である。少さな田舎道を通り、再び西の方ヒロセガワの流域に轉じて、二日路で、飯田と天龍川の畔へと出た。この道はわれの『旅行案内』にも書いてなかツた。がカミノスワから件ふて來たナカジマサンジユーといふ車夫はこれが通れると主張して、われの荷物を俥で持ッて來たのであッた
 しかし折々二人位の人夫を雇ふて補助さしたり、或處では人夫や松葉やが俥を荷ふたり、荷物を運んだりした事もあツた。こゝにまた樹木の欝葱とした、押付けられるやうな、上り坂があツた。われは先頭第一に登ッて行くと、後から人夫やら車夫等は『ヨツヤ、ヨツヤ』と掛聲をして互に勵まして登ツて來る。上の方の木の葉の一團はやゝ下の方の灌木や歯朶やで、線の迷路にある心地がした。折々嗄聲で鳴く鷙が飛廻はり、また時としては足元に七八寸もあろ蟇が居ッたのを見た。二三哩も後に人夫等が皮の剥いた蟇を茶屋へ下げて來た。それは高價な西洋料理のポーレツトよりは大きかツたやうであつた。でこれは弱い小供の藥にするのだといふことであツた。
 トキマタで東海道まで急行の約束で、舟と舟夫五人とを雇ふた。川が急流であるから、二十四圓より下ではやれないといふのであツた。十時間乃至★二時間の旅行にして可なり好い價であるが、舟を曳き返すのに十日乃至十二日間かゝるといふのを思ふと、法外に高いものでもない。
 日本の山は多くは廣い砂利床の中に細いちよろちよろ流があツて、大雨の際に氾濫するのであるが、天龍川はスワ湖といふ貯水があるので、平に舟運の便はあるのである。こゝで使用する舟は十三尺許の長さで、底と側とか偏平で、舳が方形で高くて船首は尖ツて居る。造りは弛くて、滑り易くしてある。底板は薄くて、淺瀬や荒波に逢ふと、敷物のやうに動揺する。
 荷物は船の中央へ積んで、われと松葉との坐を並べて取ッた。
 一人は舳で長い棹を操る、四人は船首で働いて居る。船が出ると間もなく斷崖へと落ちた、もう一二寸で巖角べ突當る處を、運好くよけて、渦流を廻ツてから、一小村ナカベに畫食のため止たので、息もつかずに操つて來た。こゝではスケツチをする隙も、考へる時もなく、たゝ烈しい競禦に興じて居ツた。河が高山の間を捻れて、急に落込む所がある。水の漲湃として居る處て舟が突入する、一人は船首で頻りに擢て水をかく、船尾の三人は狂氣の如くに漕く、この時は舟がとても助かるまいと思ふた。その間に舟は忽焉として一轉して、平然として流れ行くのであツた。続いて舟は快走する。カジマに入ツて山岳がなくなツて、平原となつて來た。ここより下は流は急であるが滑かである。處々に水路がある、それに堤防があつて、柳や竹が生いて居る。そこには鳥鷺や鴨が喜んで飛んたりかけたりして居る。途中船に帆を上けて行くのに達ふた、風は大概河上べ吹き上げるので。舊東海道の崩れかゝつた橋をくゞるころは日が暮れたが、ノアの箱舟のやうなものや水車等はよく見えた。トキマタから、ナヵノマチへの九十哩間の行程を十時間で旅行したのは實に驚くべきものである。尤も下流の方は比較的に流が緩漫であツた。
 それから一ヶ月後に静岡に滞在した。こゝは東海道の大きな町で、將軍の偉大な家康が晩年を送られた處、また最後の將軍の慶喜が一八六八年に退隠して、今猶隠君子として世を送られて居るのである。家康は最初久能山に埋られたのであつた。こゝは静岡から人力車で一時間で達する處である。最初の道のほとりは稻田で、それから美しい色のした小山があつて、白い★や暗緑の茶、蒼緑の大根等の筋がある。それからやゝ上つて、海の方へと狭くなつて居る。その淺は砂地で、臨崖と海岸の間には多くの甘蔗が植はつて居る。こゝにある小村には干魚の香がして居る、戸毎の擔に、松魚の片が下げてある。海岸には★煮る釜の蒸發管が處々に見える。断崖の頂上には靈廟がある、これは日光靈廟の模範である。こゝに達する段は自然石を切つて段を造つてある。この靈廟は日光や芝のと比載しては巧妙ではないが、一種獨特の美があつて、自然の風景が、その美を補ふて居る。石や木の幹には銀色の苔蘚蒸して、朱塗の殿堂の後景に對していひしれぬ美しさをなして居る。廟は垣を廻らして、屋根は銅で、多くは黒と金色であつた。神官が祈祷をして、供物の甘い酒と菓子とをくれた。家康の死骸はこゝに埋めてあつて、日光へは髪の毛を少し移したのであると、善通いふて居る。
 こゝから見下すと、數哩に渡つて海岸が廣ごつて、一方は荒涼たる原野はそゞろに武夫の昔を偲ばるゝのである。

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