寄書 茶話會
餘興子
『みづゑ』第五十六
明治42年11月3日
八月九日鎌倉丸屋樓上に於ける講習會々員の茶話會、其時の有様を書いて、講習に御出席のない皆様に御知らせ致せとの命令が、委員長から下つた次第でも何でもなけれど、物好きにも覺えてゐる處だけ申上ます、人名の如きは顔馴染淺き某甲のことゝて、少しは間違もあるかも知れません。
午後八時といふに、表二階四室うち通しの廣間、浪のやうに青いと申たいが、其實大ぶエローオークル的、否場處によつてはセピヤ的の畳の上に、ズラリと並んだのは、先生御両人を始めとして、紅一點の竹内女史マサオ少年、及び丸屋並びに建長弄其他から集まつた會員五十名、各々繪の上手ソーな顔つきな仕り、今夜の餘興の苦しそうな顔色な仕つで扣えたり。オトツサン、即ち富田委員長の開會の辭兼ロ上にて、幕を落すーオツトそんなものは無いーと、先第一に佐久間大將が福引き稱して紙片を配る、番號順に讀んで見ると、それは今夜餘興のプログラムだ、中には警句が澤山ある『ハイカラ髯は佐藤さん、次では角田、小島さん』『眼鏡の光るは菊地さん、加藤さんには天、城さん、好男子では桑田さん』などで、餘興の報告は、奥村長身君の『ハアモニカ』、平野君の『うかれ節』、角田君の『薩摩琵琶』、水谷君の『戦争談』、桑田君の『手品』、大下先生他に一人の『田舎女學生』、小林君の『踊り』、其他何でも澤山あつた。さて段々に進行する、委員長のロ上は極めて輕妙、よく人を笑はせた、角田君の『俊寛』は二い出來で、繪があの位ひ旨く畫けたらとは誰かの蔭ロ、少し座が沈んだ時、委員長の命で、大下先生の『田會女學生』が出た、先生は實際の寫生だといふて、何でも『昨夕四五人連れで學校の近處を歩いてゐた時、向ふから疲れた田會女學生め一群が來た、バタリ行遇ふと』と、先生がこゝ迄話して、急に隣ちの竹内女史と差向ひになつた、スルト女史はオーレオリンのやうな聲を出して『アノ一寸伺ひますが』と來た、こゝでイワヤのアナグラといふ慮へゆく道をきくのだ先生が『頼朝の墓は直きそこだ』と答へたら。大勢の聲で『アレ嬉しいは、近くつて!』と叫尺だので大團圓、何事か始まるのかと實は一同少々面くらひの體、さてまた段々進んで來て、小林君の踊りとなる『大夫均仕度の間』とあつて、桑田君の手品、『花をさかせて御覽に入れると』いふて、紙を破つて御自分のアノ、大きな鼻をを出したのには一同失笑、そのうち口上に連れて出で來たものを見ると、頭には大きな衣服の帽を冠り、便々たる腹は一つの顔と早變りして、目鼻立にこやかに、腰を垂れ足を曲げて、覺束なき手にサイハラヒをうちふり、何やら歌ふてヨロヨロ踊り出す工合、おかしい共おかしい共、抱腹絶倒、暫時は拍子の音で耳がいたくなつた、片桐君は『都々逸、祭文、浪花節、淨瑠璃、葉うたに影芝居、詩吟、チヨボクレ何でも來い』なんて、ヱライ元氣だつたが、今夜は甘いものゝ食ひ過ぎ、シルコカタルが起つたので、一切此次迄御預けとの事で、食つたり笑つたり二時間は夢の間に過ぎたのて、委員長の失策談を最後として目出度會を閉ぢた。某甲の見聞報告はまつザット如斯に御座候也。