春鳥畫談

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

汀鴎
『みづゑ』第五十七
明治42年12月3日

 森羅萬象皆我師たり
 繪を以て一家を成さうといふ人は、たゞ毎日繪を畫いて勉強してゐたからとて、必ずしも上手になれるものではない、日常目に觸るゝもの耳に聞えるもの。森羅萬象皆我が師であるから、自からを卑くして、それ等の物より敎を受けねばならぬ。
 

静物吉田ふじを筆

 浮瑠璃にきけ
 曾て某席亭に義太夫を聴いた、初めに出る語り人は、其外題を見て筋を想像するばかり、何を言ふてゐるのか少しも分らぬ、敵も味方も混亂して、徒らに騒がしいのみで要領を得ぬ。それが上手な眞打になると、男女老幼の言葉の使ひ分け、貴賎上下の身分の表現も、各々個性がよく現はれて實に其人を見るが如く、地の文句を語りては、其場の景致が目に浮ぷが如く、景も人も活踴して、勇に其境に在るの思がする。
 繪もこんなものではあるまいか、筆の動かぬうちは、物と物との關係が正しく明らかにゆかずに、溷濁し亂雑を極あ、其畫題の松島とあるのて、あの岩らしいもの、上にある木は松かと想像するに過ぎない、辛ふじて類性は出ても、個性は現はれぬが、デッサンの確かな人の繪にはタトヱ曖昧らしい畫き方をしてあつても、畫面にある物の特質がよく現はれてゐて、観者に無用な疑感を起させない。
 人形芝居を見よ
 人形芝居を見る、下手な人形使は、人形が動かずに自分の身體ばかり動く、人形がお辭儀をすれは自分もお辭儀をしてゐる、他で見てゐると、人形使ひでなくて人形使はれの感がある。これが一流の使ひ手になると、泰然自若、自分はやゝ反身になつて身動きもしないが、手にせる人形は盛んに動く。
 繪もこれと同じやうである、初心のうちは筆先ばかりチヨコチヨコ動いて、心は少しも働いてゐない、上手になるに從つて、筆致は粗くとも意味は緻密になる。
 能樂によつて悟れ
 能樂もまた吾人に敎を惜まぬ。一本の扇子、それはさゝ事の時に、瓶子ともなり盃ともなる。畳んで手を添えて傾ければ、それは酒をつぐといふ意味になる。開いて受け、これを口にして仰げは、酒を飲んだことになる。そこに實際の瓶子盃などなくとも、充分観者をして會得せしむるに足りる。
 繪もこれでよいのではあるまいか、寫實必ずしも上乗の繪ではない、タトへ其物を明らかに現はさぬとも、それらしく思はして、少しも不自然の思ひを観者に與べなければよいので、誥り、綜合上の美が、些細なる點の、不自然や欠點を掩ふて仕舞へばよいのであらう。
 各その長を探れ
 我等は義太夫を聴いて、個性の研究の忽せにしてはならぬことを學ぴ、人形使ひを見て、筆先の技術の無用なることを知り、能樂によつて、感情さへ現はれたなら、物の細微な描寫の不必要なことを悟つた。併し、寫實に重きを置過きるなら、恐らく義太夫其ものゝのやうに、餘韻なきものとならう。堂々と態度のみ立派でも、微細な観察が欠けてゐたら、無意味なものにならう。感情さへ現はせばと、あまりに大タイに過ぎては、不得要領のものにならう。能の場合に於ても、盃とか瓶子とか、重要ならさるものであればこそ、扇子で濟みもすれ、主要な人物は、やはりそれ相応の面も用ひ、衣装も着けてゐるのである。

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