日本の隋處隋録[下]

鵜澤四丁ウザワシテイ(1869-1944) 作者一覧へ

鵜澤四丁譯
『みづゑ』第五十七
明治42年12月3日

 鐵道へと合する爲めに、興津へと出た。こ、には「リユーゲジ」といふ寺があつて、臥龍梅で名のある處である。それから美しい少さな、清水港に出る。駿河潜中の一小灣で三保の松原といふがある。もしも能樂劇といふ事が出來れば、こゝには一場の劇化された口碑がのこつて居る。その話はこゝで漁夫が網を下して居ると、忽焉天女が天降つて、羽衣を脱いて側に置いた。漁夫はこれを密に盗むと、天女は再び天に舞戻ることが出來ないので、松の木の下で天人の舞をして、戻して貰つたといふのである。
 畫食をする爲めに寄つた清水の茶屋の畔には稻荷の社があつて、三通りに少さな赤い鳥居が密接して並んで居た。中には古いのや腐朽つたのや、まだ新しいのもあつた。
 沼津で再び汽車を乗捨てゝ、伊豆半島の脊骨たる山を越えで、小田原灣の西海岸熱海の温泉へと下つた、こゝは避寒地であつて、密柑や芭蕉の木が氣候の温暖を示して居る。恐らく、これは温泉が町を流れるので、四時氣候を暖にするのであらう。永遠に煙の帽を戴いて居る火山が、海の水平線上に見える。土人は温泉とこの火山とが關係があつて、火山が烈しく煙を吐くときは、温泉も烈しく吐出すといふて居る。
 

熱海アルフレツトパルソンス筆

 十一月の三日に友人と共に、十國峠を通つて函根の宮の下へと出發した。この日は天長節で、熱海は日の丸の旗が戸毎に★々として非常に美しかつた。
 急坂を上つて、顧ると村の屋根や、小田原灣の濃い青海原か見えた。それからキノミヤの周圍の樟の木の森に轉じた。樟の米は中には非常な大木があつて、最大木には四三縄が張つてある、されば神聖なものとしてあるので、こゝを上つて、稻田を過ぎ、草山を通つて、長い山道へ達すると、こゝに十國峠の石の標示がある。年も終りに近いのに、猶花は澤山にあつた。熱海の近傍にはホトトギスといふ花があつた。これは點のある紫の花で、砂地の土手に懸崖になつて咲いて居る。また道々には野菊雛菊其他種々の草花があつた。日は暖いので、石地に近い草の上へ坐して、携えて來た辨當を開いて、わたりの草花や、壮大な景色を見て樂んだのであつた。北方に白雪を頂いた富士が青空に屹立して居る。山の手前には低い山があつて、皆スヽキで覆はれて居る。穗の羽毛が銀色の陽炎のやうに輝いて居て、酷く美しい。更に低い山々には楓や其他の木が秋の錦を織なして居る。
 東方の眸下にはマナゾルの小半島が相摸灣に突出して、この先には太平洋が大島の火山と煙の雲とで遮られて居る。
 山強ちな海角と入江が伊豆海岸の南方に續いて、再び北方へと轉じて居る。半島の一方には湖水のやうな浦があつて、沼津に至るのであろ。これから駿河灣が初つて居る。海岸は砂地と砂強ちな稻田とで緑取つてあつて、久能山で終つて居る。箱根への山路は薄や矮い竹や、低い森のある處で、それから下ると箱根の湖水へ出る。湖水は四面山を以て圍んで、暗碧な水を湛えて居る。猶山を越して、程なく、葦の温泉を過きて、入日の名残の光線が山の薄に照添ふて居る處を下つて、宮の下の藤屋へと着いた。こゝには美しい天然の温泉と、美味佳肴とがあつた』宮の下の斷崖の下には、堂ケ島といふ一小村がある。こゝには瀬音の騒がしい谷川に、動揺する竹の橋が掛つて居る。道のわたりは温泉の暖かみて常に草が青い、そしてこのわたりに脊の暗緑、淺黄、鳶色、赤等の陸蟹の群が澤山に居て、捕えやうとすると、二ツの紅い爪を振翳して、威嚇する態度をとるのであつた』日本の道路の端に普通にあるもの、一ツは、地藏の像である。
 地藏は佛教の聖徒で、悩むものを助くるので、殊に旅人と小兒との保護者であるとしてある。箱根と葦の湯の間の路傍に地藏があつた、されば山の天然石に彫刻してあるのであつた。此地藏は弘法大師の一夜の作であると言傳へて居る。此僧侶は日本のあらゆる名山に登つて、説教の間の隙を愉んで、彫刻、繪畫、書、等をなしたのであつた。路傍にある地藏は慈悲深い顔をした僧侶で、旅人の杖を右手に持ち、左手には手套をして、蓮の花の上に立つて居る。足元には小石が澤山積んである。此習慣を聞くと、地獄の三途川の畔に醜婆があつて、小兒等がこゝを渡らうとすると、醜娑がその衣服を剥いて、永遠に小石を積ませるので、地藏がこれを助ける。それで現世で地藏の足元へ石を積めば、地獄に居る小兒の勞役が輕くなるとしてある。それでわれは地藏の前を過きる毎に必ず賽銭を捧けた。わが處々を徘徊する間を常に守らせ給ふたので、少くともお蔭で愉快な思考も得、好風景や花等の記臆をも併せ得たので。(了)

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