冬の自然
大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ
大下藤次郎
『みづゑ』第五十八
明治43年1月3日
四季各々面白味があつて、いつが良いといふことはないが、人によつては冬を嫌ひ、冬に戸外の寫生を止めてゐる畫家もある。冬の寫生に於て不便とする處は、その寒氣と西北の強き風とである。冬は自然界の活動の止む時であつて、其色彩も沈静にその調和も消極にはなるが、決して世人の思ふほど單調のものではなく、注意して研究する時は存外複雑な意味を見出すであらう、それ故色彩の研究は、むしろ他の三季節に於ける花々しき時よりも却て都合がよいのである、その上冬に於て寫生によい事は同一の状態が、他の季節よりも永く續く點で、春や秋は一日一夜で色も形も變つて仕舞ふ事があるが、冬は半月位ひは同一の調子な持續してゐる、ワツトマン四ッ切以上の繪になると、幾日も通つて仕上なければならぬが、かゝる大作を成すには、この季節が一番よいと思ふ。そして好晴の日の續くのもこの頃である。
舊暦に從へば、冬といふ季節は十月より十二月迄である、新暦に於て十二、正、二月を冬としてゐる、然し、私は十一月中旬から三月初旬迄を冬の部に入れたい、最もこれは、東京附近を土臺として。言つたことで、地方によつてはモット早く冬の來る處もあらうし、またモット遲い處もあるであらう。
冬の自然美、それについてはまだ充分研究は爲てゐないが、こゝに思ひついた點を擧げて、冬の畫境を少しく語つて見やう。
いつとなく風がつめたくなつて、梢の葉が日毎夜毎にその數が減り、秋は淋しき芒の穗に名残をとゞめて、世界は冬の手にわたり、朝な朝なつく呼吸の白く、顔洗ふときぬるま湯ほしく思ふころになると、先づ第一に目につくに霜の美である。落葉に置けるもの、板橋に置けるもの、その橋に輕く殘れる下駄の跡など、何となく趣あるもので、これ等は畫題としてはちと困るが、確かに美である。崖にのこる霜桂の崩れて白きも、また捨がたい。
初冬の美として、私は次に落葉を擧げたい、落葉の色はしめやかであるが暖かである、朽葉色枯色、その間には鮮やかなる紅ゐ、朗らかなる黄金色もまぢつてゐて、その形も、圓きあり長きあり、楓や銀杏の變化をも見ることが出來やう、ことに落葉として私の好むものは落葉松のそれである、東京附近ではこの木を見ることは難いが、近く甲州地、又は富士の裾野邊へ往つたなら、そのしとやかな細かき落葉を踏むことが出來やう、落葉松に山中の樹米として白樺に次いで私の好むもの、その、矗として男らしくたてる姿もよいが、春の鮮麗なる若々しい綠はこの世のものではない、また秋の強く華々しいオレンヂの色は他に比べるものがない、この美はしい樹の落葉、それはたゞ落葉のみでなく、斡も梢も整ひれる調和のもとに、初冬の畫題として優秀なるものである。
落葉たく煙りもよくヵンヴアスに捕へられる現象である。霜に冷たき寒林を背景として、そのコバルト色して、ムクムクと立つ煙りは、確かに好調和である、里の童の落葉かきよせて、ハラハラと焚へたつ上に掩へば、煙にパツと白く廣ごりて、圍圍にたかれる兒達の姿を黒く現はす、二三の鷄のさまやうもよからう、林の上の澄みたる空に、半ばかけたる白き朝の月の、消えなんとしてわづかに淡く殘れるもよいではないか。夕陽の美は秋に於て見ることが出來るが、初冬のそれも決して秋には劣らない。私は嘗て輕井澤の高原に於てその美はしい現象を見た、一片の雲をも止めない冬の空、日は彼方遠く日本アルプス連峰の後にかくれて、満天磨げる黄金の輝きをなし、淡く濃く紫色に重なり合ふ山又山、凸凹ある平原は波の如く杏かによせ來り、殘んの芒の彼方此方黑く鮮やかに伏しつ起りつ、スカイラインの單調を破れるもよし、私はこの境に立ちこの景に對し、今更に冬の美を思ひ、冬の廣大冬の壯嚴を心より感じたのであつた。
東京附近の郊外に出て、カサカサと風に鳴る雑木林の枯葉の音をきゝつゝ、細道を畑へ拔けると、そこには黑き土の中に、鮮やかな綠色せる大根の葉の、なほ畑に殘れるを見るであらう。日を背にして暗き鎭守の森、それを背景として、横に長きこの鮮綠の畑を畫かば、諸君は明るき色に富みれる美はしきスケヅチを得らるゝであらう。此方を見たまへ、その大根は、水清き小流のもとに、紅き襷に紅き腰巻したる、村の乙女たちの手に洗はれて、その綠の葉は水の色を更に美しくしてゐる、これもまた好畫題たるは勿論である。更に眼を轉じて彼方を見られよ、垣のやうに棚を設けて、簾のやうに横に聯ねたるは、今や雪の如く白く洗ひ上げられたるその大根である、それに朝日をうけて、うす紅ゐに彩られしもよく、夕日に向ひて、濃き橙色に染められたのもわるくはない。
田甫にはまだ晩稻の殘つてゐる處もある、刈られて積まれてゐるのもある、稻をこき藁を束ねる男女の農夫の働きも畫中のものであるが、地方によつては、刈られれ跡の田の面に靑々と綠の小草の一面に生へてゐる光景も美はしいものであつて、それに眞畫の日の光りを受けたのもよく、また稻束に夕日の照りて、田の面の暗く濃きオリウヴ色に變つた時も面白い。
農家の軒には、黄熟した唐モロコシが吊され、背戸の籬には、やれ傘かざせる菊が哀れげにまつばり、一本の老たる柿に、赤い赤い實の二つ三つ梢に殘れる趣きも捨てがたいが、池といふ程にもあらぬ水たまりに、蓮の枯葉の靜かに影をやどし、空ゆく雲の水の面にうごく風情も忘れてはならない。
冬も十二月となり一月に近くなると、自然界の色は漸々沈み勝になり、日の光りも力なく、霜解けの道の漸く乾くころには、一丁も先は煙れるごとく、物の形も色もさだかならで、何となく弱々しく衰へたる光景は、この頃よく市中に見られる。冬の繪としてこんな空氣を描い索ら面白からう、これは町のことではあるが田舎でよく見るのは、飽くまで晴れたる美き空に、見上るばかりの槻の大木、その淡白き膚に冷たき日の光りの照せるさまである。かゝる景には椶梠または竹藪などがつきもので、田舎の冬をよく語つてゐる。日たまりに咲のこる草花、それは松蟲艸もあらう、野菊のうす紫に色の變つたのもあらう、時としては、霜に痛みて眞紅にちゞれし石竹の花も見られやう、菊の花も氣高く、福壽艸寒菊の類もよいが、これ等は何れも小さくて繪の主要の題となりにくい、嚴冬のころに自然に點ぜられる鮮彩は木の實である、南天の實の美はしきに誰も知つてゐやう、蔓モドキもよいが、特に此期節に嬉しきは柑橘の類である、紀州の本場に知らぬが、東海の濱風暖かきほとりの山々には必ず密柑の畑があつて、壘々たれる橙色の球は蒼綠の葉がくれに實りて、冬の自然にもなほ此色ありと誇り顔をしてゐる。
秩父甲州、さては箱根あたりの草山の色の美しくなるのもこの頃である、ヱローオークルに似て明るき色は、日に照されて暖か味を持ち、曇れる空には灰色を帶びて何となくなつかしい感じがする、道のべの小くさの葉末が紅ゐになるのは秋のころではあるが、嚴寒の時分にもなほその色は保つてゐる。山にはまた、夕方よりよく火をかけて時ならぬ美觀を見せてくれる、その火の跡の黑く殘れるも、單調になり勝の草山に變化を與へて面白い。
海の色はその空の反映が大に影響するものであるから、夏と冬とは多少の相違あるべきは勿論であるが、たゞ幾分か暗くなると思はるゝだけで、私には深い研究がない。海岸は由來單調なもので、松の綠や漁船にあたる太陽の光度の相違位ひのものであらうが、その砂地に生へた濱芝の色は、他の季節よりも私は冬が一番よい樣に思ふ。東海道の如きやゝ紫を含んだうす暗き砂地に、紅ゐを帯びた黄色の草はよく調和するのである。
冬を適切に語るものは雲である、雪については本誌昨年一月號にやゝ詳しく述べれから、こゝには多くを言はないが、色の本然の有樣を見るには雪の時が一番よい、雪といへる白い背景を作つて、そこに綠の木を見れば、その綠の色の細かき變化も見出し得やう、平素は唯だ黑いとのみ見てゐた幹も、存多赭味や靑味を帯びてゐるのを見出すであらう、雪そのものに就いても、其遠近その濃淡を外として、空や家屋や樹木やの反映によつて、たゞ白いとのみ思つたものに幾多複雑したる色彩が發見されるのである。私に北海道やまた北陸道邊の冬を知らないが、かゝる處には更に多くの好畫題があることであらう。氷の美としては、嘗て、大湖にはりつめしそれに、夕陽の強く映する光景の繪を見たが、これも冬の自然美の-に擧けてよいであらう。
南の枝に早咲の梅のほころぶ頃となると、冬も終りであつて、一陽來復、いま迄凄く透明なりし空も漸く霞を帶びて、麥の綠は色明るくなりゆき、堤の草も枯れたる中に若綠を點じ、氣の早いタンポゝの一つ二つ咲出して、世界は日に日に陽氣になる、從つて畫題も增して來る、吾々の忙しくなる時節である。この頃特によいのは杉の林で、秋には憎らしき程若々しい綠のその葉も、漸く色變りて蕉茶よりも暗く、ひとり空にぬき出てゝ立てるもあしからず、また雑木林の中にまぢりてあるのもよい。
私はある夕、燻つたやうな紅の空を背景として大なる槻を寫生したことがある。その一葉をもつけざる小枝は、一脈の生氣が通つてそが穿を出し葉を開く時は程遠からぬを語つてゐる、前景となりし道端の枯草は、その表面の色こそ冷たけれ、これもまた春迎ふるの意氣はありありと現はれて、紅き芽、綠の葉先、皆それぞれに活氣に滿ちてゐるやうに思はれた、實に、冬は春の始めであると、この時つくづく感じたのであつた』氷の如き寒月の美、氷桂の美、その他數へ來らばまだ言ふべきことは澤山あらうが、眼に見ゆる冬の自然美はやゝ以上に盡きたつもりである。更に少しく耳に訴ふる冬の自然を擧げてこの話を終らうと思ふ。
初冬の頃に於ける鶯のサ★啼きはなつかしく嬉しいものである、三脚すえて畫筆走らせてゐる直くそばの小藪の中で、チゝチチと枝から枝を飛交ふこの小鳥の姿を見ると、最早冬が來たといふ感しが一層切になる、寒き朝を聲高く叫ぶ百舌鳥雪の日庭の南天に集まる鵯、寒さに鳴く雀の群など、鳥の聾も少なくはない。靜かなる夜の雪折の音も冬の聲として數へたい。これは自然といへぬかも知れぬが、寒く凍れる夜のカラカラと地に響く下駄の音、さては火の用心の柏子木の音など、冬ならではかく迄深い感じを人に與へぬであらう。 (完)