ラスキンの山岳論[五]

小島烏水コジマウスイ(1873-1948) 作者一覧へ

小島烏水
『みづゑ』第五十八 P.11-15
明治43年1月3日

 ラスキンは、『近世畫家論』第二巻で、「土地の眞實」といふ題で、土地の一般構造から、中央山岳即ち高山性の山岳、それから低山性の山岳、最後に前景即ち山麓低原の四章に分けて、極くザッとした山岳論を試みてゐます、一體ラスキン自身は、『近世畫家論』の中でも、此第二巻が、自分の氣に入らなかつたやうで、晩年の自傳に依ると、第二巻は燒棄しても、差支へないやうな、悔恨の口吻を洩らしてゐますが、併し他の部分はともかく、第二巻の中でも、山岳論や、水の美に關する研究は、决してラスキンの名譽を、輕からしめる論丈ではないと考へますし、且つ其山岳論は、第四巻の「山岳美論」の前提として、見るべき價値がありますから、大體の論旨を御話いたします。
 ラスキンの見る所に依ると、土地の眞實といふ言葉は、赤課々なる土地の事實と、形體との、誠實なる表現を意味するので、其の土地は植物で掩映されたりして衣を著てゐるが、土地と風景畫家との關係は、恰度人間の裸體即ちデツサン研究が歴史畫家に必要なのと同じである、植物の繁茂にせよ、水の働作にせよ、叉雲の出現までが、土地の形體に支配をせられてゐることは、衣裳の褶折や、毛の垂れ方が、動物骨骼の搆造に從ふやうなものである、さうして此骨組といふものは、必ずしも常に隠匿せられてゐるものでは無い、殊に自然にせよ、藝術にせよ、有らゆる壯嚴なる搆造には、その赤裸なる純粋で、見なければならない、土地組織の法則といふものは、動物骨骼のやうに、自然に碓定せられたもので、同樣に權威あり、犯す可らざるものである、素より畫は、何に限らず、表面の現象を描くものであるから、内部の機械的組織の智識が無くとも、現はれた通りの結果には、達し得られることが出來る、と云っても、其無識は恥辱であり、其背反は尚ほ以て寛恕の出來ないものである、即ち土地組織の法則そのものは、人を惹きつけるやうな力がないにしてからが、それは風景に於けろ一切の誠實の源泉である、即ち必要てあるだけ、それだけ美である、と、かう冒頭に論じてゐますさて私は、之な註釋して、日本の風景に應用して例を引きます、植物の茂生も、土地の組織搆造に支配せられることは、今更説明するまでもありませぬ、傾斜の緩急に應ずる樹木の姿勢は、素より同一め山岳で、同一の高度でも、日に向ふ方面と、日影の方面とは、光線も違へば、植物の種類も多少違うであらうし、又生長め遲速も、著るしい懸隔がある、一方は雪全く溶けて、高山植物などが、色彩の幾筋を流してゐるのに、一方は氷雪の下で、嫩芽を角ぐむでゐるに過ぎないことなどは、多く見られる光景であります、又水の働作にしましても土地の斷暦を流れる干曲川(信濃)と、只だ土地を浸蝕して流れる富士川(甲斐)とは、同じ山國の峡流でも、川の姿が違ひます、前者は、先づ土地に溝が出來て、その上を水が流れるので、後者に水の力で、土地を决潰して走つてゐるのであります、叉同じ浸蝕谷でも、比較的柔かい火山岩の土地を流れる富士川と、花崗岩のやうな堅硬無比な岩石地を貫ぬく、天龍川とは、川の姿が同じではありませむ。
 これ等は部分的に、川の一部分を仕切って、描いても解りますが、もし高い山から、かういふ曲折の川を、鉛筆でもよろしい、手帖の瑞にでも、鳥瞰圖にスケツチして御覧になつても解ります。最も地質學敎科書の挿繪にでもしない限り、繪畫は強いてこれ等の特徴をのみ、抽出して、區別的に描く必要はありませむ、併し眞實を知つてゐないと。概念になり易く。抽象に陷り易くは、無からうかと思ひます。
 次に虚空に懸かる雲までが、土地の形體に憑據するといふことは、放漫な自然観察者には、信ぜられないことかも知れませむが、併し山の雲は前額へ垂れ下る髪の毛のやうなもので、その著るしい一例を擧げますと、富士山に有名な、笠雲といつて、ハンペン形の雲が、山の六七合目以上に冠さることがあります、これは氣象學上種々の理由があつて、起ることではありますが、富士山が圓錐形でなければ、あの雲は、形ち作くられないであらうと、私は信じてゐます、甲州アルプスに、白峰の北岳といつて一万尺以上の高山がある、これは・富士山のやうな、火山ではありませぬが連嶺の上に特立して、圓頂塔形の山であるため、富士のに肖た笠雲の懸つたことを、私はその山と谷一ッ隔てゝ向き合つてゐる、地藏岳といふ山から、眞正面に觀察したことがあります、雲といふ水蒸氣の團々は、山といふ鑄型に流れて、アヽいふ特種の形容を作ります。即ち實例に照らして、ラスキンの警告は、眞實であると信じます、ラスキンは、此自然、特に山岳地の風景に對する古の大畫家が、觀察の疎漫なることを慊らず思ふ人で、グロード及びサルヴヱートルの山岳畫を土地の組織の法則違反といふ根本的の理由から非難して、更に議論をつゞけました。
 曰く、山が他の土地に於ける干係は、烈しい筋力の働作が、男性體格に於ける、それのやうなものだ、山岳に於ける解剖上の筋骨は、表情と、情緒と、強力に滿ちた、烈しい精力で擡げられたもので、平原や低山は、骨體の休息で、その筋肉は、美くしい線の下に隠れて、睡眠してゐる、併しその線が、波動に支配せられてゐるところは、土地の眞實の最初の大原則を見ることが出來る、日本でも武藏野の波状平原、秩父などの水成岩から出來た波状低山は、ヤハリ土地筋肉の動作として、見らるべきものであります。
 ラスキンに依ると、山の精は活動で、低卑地のそれは、休息である、其間に介まつて、活動や休息の各變化が見られる、只だ土地の動作と、動物の動作と、異なるところは、動物は筋骨を肉で包むでゐる、即ち肉を通じて、印してゐるが、激昂した土地(山岳)は、肉も一緒に抛げ出して、骨も下から飛び出してゐる、山岳は土地の骨である、高山の峰となると、平原で言へば厚い土地の下、およそ二万五千尺位な、深い底に埋もれてゐる骨が、躍り出してゐる、さうして土皮の上衣を兩腋に脱ぎ捨てゝ、自分は尖塔形又は楔形に蜿蜒と、天外に走つてゐる、低い山は、恰も脊椎骨から、肋骨などが何本となく、分岐してゐるやうに、高山を中心として、兩側に延びてゐる、ことに土地の眞實の他の法則が立てられる、即ち山岳は、凡べて下から來て、凡ての支柱にならなければならぬ、さうして低山、高原、平原などが、次第に堆く、按排行列してゐても、それは山岳の腕に倚りかゝつてゐなければならぬ、然るに、此原則に違反して、山岳が平原の上に乗つかつてゐたり、又平原の礎の上に、建築されたりしてゐるやうに、表現されてゐるのは、誤謬である、と喝破してゐる。
 例によりて之を註釋しますと、富士の裾野や、淺間山の追分ヶ原などに轉がつてゐる燒石は、山の上かち土地の上に投げ出されてゐるのであるから、土地の上に乗っかつてゐるやうに、描くのは當然でありますが、富士山そのもの、淺間山そのものは、土地の底の深い々々燒け土が、脆弱な地皮を突破して、土地の表面に出現したのであるから、根抵を地底に托することは甚だ深いのであります、尤もラスキンは、主としてアルプス山研究から、山岳を論じたので、アルプスには火山が先づ無いといつて宜しい、(但し絶無ではないが、低卑で言ふに足るものが無い)故に、水成岩や、火成岩の上から、述べたのであります。
 日本で言へば、甲斐の駒ヶ岳や、又信州木曾の駒ヶ岳などは、或は一万尺或は八千餘尺の、立派な高山であり衷すが、敦れも花嵐石といふ、深成岩で、最も深い土地の底から、蠣起し六のであります、さうしてパミUル的高原が、その山岳の兩側に、堆くひろがつて居ます、恰度伊豆の海から、大嶋が見えますが、あの大嶋は、海の上に乘つかつたり、浮んでゐるのではなくて、海底より、更に深く根を托してゐて、波が四周に寄つてゐるのである、低山、高原、平原は、波であつて、大山岳は嶋である、と思へば、やゝ正しい觀念が得られませう。
 ラスキンは、此山岳對他の土地の干係を正しく描寫してゐる適例として、タアナアの描いた、詩人ロージヤァの作『伊太利』の挿畫、マレムゴー(那翁が伊太利軍を大破し六古戦場)を擧げてゐます、即ちラスキンの上記の議論を綜合して、具象的に描くと、タァナァのマレムゴーの繪になつてしまふと、いふのであります、さうしてラスキンは、山岳を、地質學的に、組成の上から三ッに分類して、始原層、第二紀層、第三紀層として、始原暦は、位置の上から言へば、他より低いがこれは成生の時代が最も古くて、久しい年代に削磨されて了つたから、或は中央山岳(最も高大な山岳)となつて高く擧がり、或は凡ての山岳の内部の核心になつてゐるもの、第二紀層は、始原層を挺いて、又はその上に跨がり、凡べての山岳景の、大部分を作つてゐるもの、第三紀層は、その側に布かれた砂や、粘土の輕い床で、平原や人間の、住居地になつてゐうところだと、簡單に説いて、扨、第一に高山性山岳、即ち中央山岳の形成及び性質を説き、次に低山性の一般組織存説き、最後に山麓の地床、即ち菩通に風景畫家の前景を作れる土地に説き及ぼしてゐます、併し始原層、第二紀層、第三紀層といふ分け方は、今日から見れば、極くザッとした分類で、今の地質學では、もつと精密な、科學的の分け方が出來てゐますが、それは、格別必要もありませぬから、述べませぬ。
 ラスキン山岳論の第一章、土地の一般搆造論は、これで終つて居ます。

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