三脚物語 第一回

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

汀鴎
『みづゑ』第五十八 P.18-22
明治43年1月3日

 僕―僕といふのが一番適當な代名詞だらう、吾輩といッては猫のやうだし、拙者、身共、某と來てに大時代、ヤツガレは馬琴を思ひ出すが少々下卑テる、俺なんといッては讀者諸君に失敬だ、小生ぼ何だか手紙に書きそうだ、自分といふのも可笑しい、拙はキザだね、下拙と來ちやァ鼻持がならない、手前は町人臭い、此方乃公などは横柄だ、私なんていふガラじやアない、ワツチは意氣だが少し安つぼいね、矢ッばり僕がいゝ、僕に限る。前置が長くなつたが、この僕といふのは、諸君の尻に敷かれていつも忠實に御用を勤みる三脚のことさ、忠實にと今しがた言つたがね、乘つてる野郎が生意氣だと、時々謀反を起して一本ポキンとやらかして、ヤッ!といはせることもあるさ、勿論コツチも少々痛い目はするが、手に持つテた繪具箱を抛り出しの、大地に尻餅を搗いて、顔を顰めて腰をさすりさすり起き上る體裁が一寸見物で、これが見たいばかりに時々ワルサをする仲間も居るよ。
 忘れもしない去年の八月だ、鎌倉で講習會のあつた時、僕が宿屋の二階の床の間で少し考へ事をしてゐると、傍ヘ二三人の袴を穿い表連中がやつて來て、頻りとヒネクり廻し、ヤレよく手磨れてゐるの、革が破れてゐるの、眞黑だのと好きな事を言つてたが、仕舞にこの三脚は随分長い間先生にクッツイてゐたらうから、自状さしたら面白い話が澤山あるだらうと一人が言ふと、他の一人も、これが口をきくものなら饒舌らして見たいといつた、僕はその時思つたね、こう見えても、今の主人がそもそも繪の習ひたてから奉公をしてゐるんで。最初の景色寫生に腰を据えられてから今日迄離れたことがないんだ、だから、お話をすりやア切りがない、僕等の仲間の日傘や繪具箱や畫架なんかには、互に多年の懇意上思ふことが通じ合ふが、人間には分らない、そこで、古い馴染のブラツシ君に頼んで、僕のザツトした経歴を書しるして、そのうへ種ゝの見聞を思ひ出し次第に並べて見やう。
  二
 僕のお姿は、いづれ寫眞版にでもして貰つて諸君にお目にかけるが、まづ脚は頑丈な樫の木で、少しの重味で直きヘシ折れるやうなそんな弱いのじやアない、革は厚味の二分もあらうといふ丈夫な白ナメシ、尤も一方の縁が二寸ばかり削りとられてゐるが、これは軍艦に乗つて濠洲へ往つた時、平生は不用だといつて、倉庫の棚の上に上げられてゐたが、船の中の鼠め、喰物が乏しいもんだから、シマイにに僕の處へやつて來て、厭だといふのに搆はずポリポリ噛り出したのさ、オヤオヤ大變、コイッは全身喰はれるかと大に心配したが、そのうち倉庫に米が運ばれたので僕の難は脱れた、傷はその時の紀念さ。三脚の締め括りの鐵物と來たら、憚りながら堅鐵で、この頃出來るやうな、ピカピカ光つてばかりゐて、少し捻ると折れたり、ネジが飛んだりするやうな。ヤクザのじやァない、今の主人の處へ來てから、脚一本折れたこともなければ、ネジ一つ飛ばしたことはない。一たい、寫生箱でも傘杖でも、ピカピカが大流行だが、アンナお姫樣の玩弄物のやうなものを持つて喜んでゐる人達の氣が知れない、今度出來たといふ革止の奴はハイカラだが、ピカピカよりはましだらう。
 僕もだいぶ長い御奉公で、全身は自然に手褶れて底光りかしてゐる、ネシの頭なんか磨かれたやうに眞白に光つてゐる、革も糸がほつれて針鐵で繕ろはれてる、これに何も僕が弱いセイじやない、年をとればこの位のことは詮方があるまい。
 

久保澤藤島英輔筆

  三
 僕が職人の手を離れて、京橋の伊藤といふ彩料舖に轉かつてゐたのは久しい間だじやアなかつた。色が黑いので、カツパァブラオンとよばれてゐたあんまり正直でもない伊藤の番頭に連れられて、今の主人の手に渡つたのは、思へば十七八年昔しの事だ。それからといふものは、族行は勿論、近所の寫生、散歩に迄もお供をしてゐるが、主人も僕を非常に可愛がつて呉れて、歩行時は腰にさげたり、または日傘と一しょにして手に持つたり、汽車では網棚へ乘せてくれる、時には席に立てかけて戸外も見せてくれる、宿屋へ泊れば、キット上段の床の間に置かれる、それはそれは大切にして呉れる、難有ことだが、又考へて見れば、僕が居ないと大困りだからそのセイもあるかも知れない。併しこつちも困ることがあるさ、荷持人足無しの族と來ると、畫板やら書物やらを革紐で括つて、僕を天秤代りに紐に通して肩で擔ぐ、五丁や十丁は辛抱もするが、これが二里となり三里となると随分コタヘるね。それから、汽車の網棚でも時にヒドイ目に逢ふ、コトコト進行に連れて、よい心特ちでうつとりしてゐると、下から急に白い烟がモコモコと上つ來る、烟くつて烟くつて咽喉はイガラクなる、涙は出る、耐つたものじやない。ドーも煙草をのむ人は僕は嫌ひだ、臭くつていけない、しかし畫家で煙草をのむ人は澤山ある、西洋の畫家の傅記にも、よく勞働者の持つ頭の大きい木の煙管へ、キザミ莨を詰めてスツパスツパやつてゐる先生があるらしい、日本の洋畫家にも澤山ある、岡先生もやる、丸山河合兩先生は盛んなもんだ、永地先生は時としての組だ。石井先生中村先生はやらない方だつたと思ふ、滿谷先生はたしか不得意だ、自馬會の方へはメツタに往つた事がないからよく知らないが、三宅先生は禁煙黨だ、僕の主人も喫まない、前年大阪で講習のあつた時、講師の大橋先生も僕の主人も煙草をやらず、その上、煙草の烟りが色彩を變らせるから、繪には害があるといふ話をしたので、會員の一人は爾來禁煙をするといつてゐたが、近頃はドゥだか、この人は面自い人だった。
  四
 習慣だから醜くないやうなものゝ、煙草をのむのは菓子を喰ふのと同樣だ、イヂキタナシだ、歩行いてゐてもやる、客の前でも平氣でやる、寝床でもやる、便所でもやる、甚しいのは風呂の中で吸つてゐるのがある、コーなるとあまり感心ぱ出來ない。主人の親友の某氏は、先年アメリカへ往つて、寢臺汽車へ乘つたが、そこでは煙草をのむことが出來ない、苦しまぎれに寢床へ入つてから内しよで吸つて、その煙を空氣枕の中へ吹き込んだとの事だ、こんなにしてものみたいものかしら、よほどよい味のものと見える。
 寫生して勞れた時に一寸一服やるのは實にいゝ氣持のものだそうだ、その間に妙想も浮ぶといふ。それから煙草の煙でブトや蚊は追拂ふことが出來るといふ。よほど前の事だ、主人の供をして植物園へ往き、あの竹藪の中へ据へられた、藪のことだから盛んに蚊が責かける、主人は苦しがつてドゴへか出掛けたと思つたら、やがて巻煙草を買つて來た、そして十本の煙草に一々火をつけて僕の廻リへ立てゝ置た、此時は僕大に閉口したよ、そのうち直ぐ火の消えるのもある、半分位ひ燃えるのもある、燃え切つて仕舞つたのは一っもなかつた、蚊よけの効能もあまり成功しなかつた樣だつた。
 煙草の効能はまだある、靴ずれの出來た時、吹殻を飯て練つて局部へつけて置くと翌日は治つてゐる。煙草腹も一時で空腹の咒にもなる、煙草黨に言はせればまだまだ澤山能書はあらうが何が何でも僕は煙草は嫌いだ、主人も生意氣盛りには喫つたこともあるそうだ、紙巻はキナ臭い、葉容は強くつて目が廻る、刻みは煙管のヤニの臭いのが嫌ひだ、外出の時用意した煙草にのむのを忘れてゐる、喫うと思ふ時は袂にないといふやうな譯で、そんなにして迄も勉強しなくもよいといふのでとうとう止めて仕まつたさうだ。
 アメリカ人は、無やみ矢鱈に何處へでも唾を吐くといふ、これは煙をのむからだとは、この頃の新聞にあつた、煙草といふ奴ば穢らしいこと迄さぜる厄介な奴だ。

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