閑話

昔の人
『みづゑ』第五十八
明治43年1月3日

 アメリカのヴ井ラスといふ人は、其妻君の肖像畫をセントルイス市の某大家に頼んだ、先生は、其肖像の主人公が頗る美人であるので大に乘氣がして、一生懸命に描き上げたので、ヴ井ラス氏も大に喜んで、さて謝金は何程ときいたら二千弗欲しいといふ、此金高に驚いて、俄かに其肖像を畫家の宅へ持させ返し、『此繪は妻君に少しも似てゐないからお氣の毒だが返却する』と言はせた、畫家は甚だ不滿だつたが、詮方なしに其儘受取つて置た。すると、或る姻草屋の主人が來て、何か廣告に遣ふ美人の像はあるまいかといふので、是幸ひと直ぐにヴ井ラス氏の許へ手紙を出した『畫像御返却の趣承知致し候、就ては本日幸ひ或る烟草屋より店頭に掲げ度旨にて美人像を求めに参り候間、閣下御夫人には聊かも似寄りのなきかの畫像を以て間に合せ度、無論御異議無之儀と存候へ共爲念申上置候。』この手紙を見てヴヰラス氏に殊の外驚き早速二千弗な拂つて其箇を引取つたとのことである。
 

箱根舊道大下藤次郎筆

  二個の主人公
 有名なヴ井ンナ聯合會議が終つて後、列席の諸名士は、常時會議の模樣を圖畫として後世に残さんといふので、佛の畫家イサベーに執筆を頼んだ。其時、ウエルリントン公は、英人特有の傲漫な體度で、自分を畫中第一位に置く事、さもなくば此圖には加はらないと言ひ出した、然るにフランスのタリーラン公は、自分はフランス一國を代表する人物であれば、 是非圖中の首位に置くやうにと畫家に要求した。イサベー先生大に困却して、熟慮の末終に相方に滿足な與ふべきコンポシシヨンをあみ出して、漸く此難關を切り拔けたといふ。其構圖といふのは、まづ、ウエルリントン公が將に議事堂に入らんとする時に、 列席の使臣一同が眼をこれに注いでゐる模樣を畫き、同公に充分滿場の主人ともいはるべき風釆な與へて、次に、こなたには、議事堂の中央に、タリーラン公が椅子に倚り泰然と構へてゐる風を畫いて、箇中の名舞ある位置を與へて置たのであつた。
  苦心の作
 元の始祀タメルランカンは甚だ短氣で峻酷であつた、自分の氣に入らない事があると誰れでも刑罰に處した。ある時畫家をよんで肖像を描かせたが、タメルランカンは眇であるので、其通りに畫いては氣に入らぬに極まつてゐる、刑罰も恐ろしい、そこでタメルランカンが弓を彎いて狙を擬してゐる圖を作つて差出た處、大に氣に入つて厚い賞があつたといふ。狙を定めるに、左の眼を閉るのに當時よりの習慣であつたので、これを應用して體裁よくゴマカしたのであつた。

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