歌川廣重傳


『みづゑ』第五十八
明治43年1月3日

 日本畫は水彩畫の一種である、古來日本風景畫家は實地の寫生によつて繪を作つたものであつて、中世以後のやうに臨本や想像によつて畫き上げたものでない事は、全國景勝の地に金岡の筆捨松とかいふ處があり、また狩野某は、堺の某寺に襖を畫き後ち東に下り、箱根山中に枝振よき樹を見て急に引返し、さきに畫きし襖の木に杖を加へたなどどいふ、逸話の少くないのを見ても知れやう。四條派は寫實から出てやゝ大成したが、自然を寫すといふことに尤も力を致したのは、所謂浮世繪といふ一派であらう。そして其製作には作者の想像も多分に加はつてはゐるが、從來の日本畫に比しては大に發達したものであつて、透親畫法も應用され、其色彩の如きも自然に近いものがある、此意味に於て、浮世繪は水彩畫として取扱ふことか出來やう、特に初代廣重の如きは、其模寫する處何れも自ら族行しスケツチした場處であつて、其形體こそ寫實といふ上から批難もあらるが、其景色の生命たる感情は何れもよく捕捉してあつて、眞に驚嘆すべき作品も少くはない、海外美術鑑賞家の推して大風景畫家と賛するも溢美ではない。こゝに無名逸人の所稿にかゝる廣重傳を得だれば、毎號其幾分を掲げて、偉大なる風景畫家、日本に於ける水彩畫の鼻祀ともいふべき畫伯の生涯を讀者に紹介することは徒事ではあるまいと思ふ。
 〔一〕
 歌川廣重は、一立齋と號す、安藤氏、幼名徳太郎、後に十右衛門、(一に、十兵衛、)又徳兵衛と改む、寛政八年八代洲河岸の火消屋敷に生る、其の父の名、詳かならざれども、定火消同心にてありし。
  按ずるに、定火消は、失火消防の爲めに、設けたる役員にし て、其の屋敷は、江戸城の周圍八ヶ所にあり、常に消火夫を 集めて、非常を守ちしむ、定火消役は、布衣三百人扶持の俸 給にして、其の下に與力六騎、同心三十人あり、與力は百五 十俵同心は三十俵二人扶持の俸給なり。
 徳太郎、幼より師なくしてよく畫く、文化三年、琉球人の來りし時、これを見て其の行列を畫きたり、時に十一歳、其の畫今猶傳へて、其の家にあり、後浮世繪に志し、一世歌川豊國に就き學ばんとせしが、豊國の門人日に多きをもて、門に入るを許さず、よりて貸本屋某の紹介をもて、歌川豊廣の門に入らんとす、豊廣又これを距みしが、徳太郎細かに己の志を語り、頻に乞ひて止まざりしかば、豊廣其の志の厚きに感じ、終に入門を許したり。
  按ずるに、本朝畫人傳をよび增類補考に、廣重は、岡島林齋 の門人とあるは、非なり、林齋は狩野素川の門人にして、素 岡と號し、又梅齋牛仙なと號す、俗稱武左衛門、八町堀に住 せし定火消與力なり、廣重と友とし善し、常に往來して、共 に畫道を研究せりとぞ、吾友加藤氏は、八町堀に往し、旦岡 島氏と縁故あるをもて、よく林斎を知り、又廣重を知る、其 の言に曰く、廣重は、林齋と大抵同年齢にして、其の頃廣重 は、剃髪して居りしが人品賤しからざりし、林齋の友人な りと。
 文化九年九月、徳太郎師名廣字および歌川を稱ふことを許され、歌川廣重と稱す、其の時の免状は、傳へて其の家にありしが、近頃清水の有となる、免状に、元祖、歌川豊春、同豊廣印として、あとに門人廣重としるし、文化九年九月吉日とあり。
  按ずるに、文化九年は、廣重が十七歳の時なり、十七歳にし て免状を得るは、蓋し古來稀なる所ならん、これ廣重が筆力 の超凡なるを知るべし。
 文政一年、東里山人作、音曲情の糸道三冊岩戸版を畫く、これ廣重が草雙紙の初筆なるべし、
  按ずるに、署傳に、東里山人、九陽亭と號し、又鼻山人と號 す、麻布三軒家に住す、通稱は細川浪次耶といふ、鼻形の印 章あり、俗に京傳鼻といふ、山東庵が門人なり、活東子曰く、 吾師無物老人話に、浪次郎晩年漂泊して、芝の切通にて、傳 授屋といひて、奇方妙術などを小さき紙にしるして賣れり、 予も流離して、曝書僧となり、倶に相隣りて活計せしか、後に江戸橋四日市の小店に移りてより、聲聞せざれば、其淵瀨 をしらずと云々、作者部類に、東里山人、麻布に居宅する御 家人、(御普請役)實名を忘れたり、文化四五月の頃、和泉屋 市兵衛に請ひて、初めて臭草紙(當時合巻既に行はる)を印行 せられしより、年毎に此人の作出でたり、然共拔翠なるあた り作なし、其作りさま南北と相似たることあり、前輩の舊作 を剽竊して作れるもの多かり。
  同十年、江南亭唐立作、筆綾糸三筋繼棹六册を畫く、此の頃師豊廣と共に、草筆の貼交畫を畫く多し。
  按ずるに、江南亭唐立は、狂歌師なり、略傳に、通稱を中田 慶治といふ、原市街に住て、幼より狂歌を好み、故十返舎に 随つて、愚舎一得といふとあり。
  同十二年豊廣没す、これより廣重獨立して、別に師に就かず、愈々勉強刻苦して、一機軸を出ださんとす、一説に、人あり、豊廣の名を繼がんことをすゝめしが、畫道未熟なりとて、これを辭したりとぞ、
  按ずるに、三世廣重が、建碑の報條に、先師立齋廣重翁は、 (中略)師の机邊にある僅にして、年甫十六のをり、師の先立 れぬれば云々といへるは、非なり、廣重は、文化六七年の頃、 豊廣の門に入り、同九年師名の一字な稱ふを許され、しかし て竪廣は、文政十二年に没したり、其の間二十餘年、師に就 くこと二十餘年の久しき、これを謂て、僅なりといふ、誤り も亦甚だしからずや。

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