寄書 畫境
津川清平
『みづゑ』第五十八
明治43年1月3日
正慶二年赤松圓心が城を築い索といふ摩耶山は、實に歴史と共に叉詩境としても麗しい山である、山麓原田村から十丁程登ると八丁坂に掛かる、老杉古檜が森々として生い茂つて居る、時に林間に畫架を立てたなら、畫嚢を開いなら、三伏の侯にも冷氣熟を洗ふの感があるであらう。
一日舊道な早朝から登つた事があつた。服ぼ露に濕れて寒い、山上の杉を黑く望むだ時、一種の尊嚴な感じがしたが、此の八丁坂に來て、猶一層其の感を強めた。八丁坂な通り越すと石階が百九十七段ある、寺、天上寺は餘りに感心せぬが、奥の院と來ては實際畫なほ暗しといふ蒼然とした景である、杉の森を出ると六甲山一體の山々が目に入る、雨でも降りさうな雲が始終動いて居る。
或に夜間月光を浴びながら登山して寺に宿り鐘の音に一夜な明かすも面白いであらう、山上の寺では、是れ等の人に便宜を計つてくれるさうである。
市ヶ原村は布引の瀧、それの山奥にある、瀧は現今餘りに附近が開けたので俗悪の地となったが、雄瀧も過ぎ廿丁も登れば水源地に出る、是れも過ぎて、小川に沿つて細路を数十丁進むと、古い農家が五六軒、それに田畑が見え始める、背景は芝山て單調だが、水彩の小品にでも見るやうな景色、これが市ヶ原村である、家屋は小笹で葺いた小さな家ばかし、秋の末頃萩を別けて行つて見たまへ、山中の寒村といふ感は遺憾なく表現されて居る、牛や馬や農夫はあまり見ないが、草刈の姿なんかを主に、寒村な遠く見て畫にしたら面白いだらう。自分等が行つた時に、村の子供にピール壜の空を與へたら、喜むで蕨を澤山取つて來てくれた。此村の東方の小川等も紅葉した頃は美しい、丁度云年展覽會で見た吉田先生の秋(油繪)の樣な景色である、此の川に夏なんかの水のある時にも畫嚢な開いて面白い處である。
諏訪山の再度山がある、其れから山田村に向ふ五六里の山路、之も面白い畫境である、禿山連きの路を五六丁進むと池があつた、丁度秋の中頃、空にコバルト色に晴れ渡つて、池の色も透きとほつて居る、十數丁行くと花崗岩の赤く赤銅色をしたのが彼方此方にごつごつと出て居る、その壯大な線、偉大な面、色彩の奇、奇觀と言はうか壯觀と言はうか、自分は是れを言ひ現せない、地獄油繪::背景の樣‥‥鳴呼|繪とするか詩とするか音樂とするか。
廿二三丁行くと草原に出る、秋草の中で数知れぬ虫が鳴いて居て露がしとしととこぼれる、寫生などとても出來ない、復た何時かを期して山田村に出た、山田村の千年家をおとづれた。
(完)