美術談叢 研究家の心がけ

ParsonsAlfred William 作者一覧へ

石川欽一郎
『みづゑ』第五十九
明治43年2月3日

 何事でも。研究に從事する人は細心篤實なるべきは申すまでもないことなるが。殊に書の研究の如きは最も然りと感ずるのです。畫を習ふと一口に云へば簡単のやうであるが。之を分解して見ると大略三つの要素となる。即ち手の研究。眼の研究。頭の研究です。此三のものが共に進歩するのが最も大切の事で。こう行けば順當であるが。眼ばかり進んでも手が之に從はぬ時は。他人のアラばかり分つて自身は一向に進歩せず。
 又た頭ばかり進むに於ては。無闇に大天狗大家となりすまし。ウドの大木と擇ぶ處なきに至る。若し又た手ばかり進歩するに於ては。之は職人ヱカキと云ふもので。只上手に達者だけで。其作には氣韻もなく品位も無いことゝなります。
 此三要素は何れの一方に偏しても片輪の進歩となる。故に平常の注意が大切なることは申すまでもない。
 腕は好し觀察も正しく理解力に富んだる畫家こそ。我々の理想とする處で。眞の大家は此の如き人を云ふのです。
 廣く見ることが研究家には大切です。私の知る青年研究家の中。何か畫を見せるとそれを非常に熱心に熟視し。片時も手を措かぬような人もあり。又た見るには見ても。直ぐ下に置いて他の談をすると云ふような人もあります。私の経驗では。熱心に見る人ほど研究に熱心なるもので。此の如き人は好き進歩を來たすのです。例に出すのはどうかと思ひますが。之も道の爲めと御勘辨を願つて置いて。石井柏亭君の如き即ち此部です。私は同君の十四五の時分から知つて居ますが。畫を見るに熱心なることは驚くばかり。假令ひ印刷物の安畫なりとも隅々まで熟視翫味する。此心がけは研究家には幹要なることで。同君の今日の進境は決して偶然ではないと思ひます。
 之に反し。畫を見ても只一と通りで止めて他を談ずる如き研究家は。一般に云へば先づ進歩は遅いようです。無論例外はある。若しそれが專門家ならば。其進歩はそれで止まりなるべく。大家ならば追々下り坂となる。之は平常畫に封する心がけの結果に外ならぬ故致し方なし。
 畫を熟視すると云つても。夫れには意味がある。只見るばかりでなく。色の工合。形状。筆法の行方まで一々味ひ見ることで。即ち其作者と同一の態度。氣分を以て一點。一線の先きまで注意することです。
 之れには自己を空しくすることが大切です。他人の作に對して。オレの方がもつとウマイなど、自己を持出す時は。最早他の長所は目に入らず。それ故自己を空しくし。其作者と同じ考を以て畫に對することは少しも我損にあらず。他人の長所を究めて之を我物とする大なる得あり。名書より學ぶ所多きが如く。我よりも劣れる書よりも亦學ふ所多し。研究は長を究むると共に短をも知ること幹要なれば。他人の短を見ては。
 我も力めて其轍を蹈まぬよう用心を鞏むるの利益があります。
 アンナ畫は見る程の價値なしと。頭からケナして仕舞ふ畫家も世間には尠なくはないが。私は此態度が一體畫に對して不忠の如く思はれるのです。此の如き考を持つ大家あらば。やがては退家となること請合で又た私が知る某大家の如きは。汎く世界の名畫に親しく接したるにも係はらず。後進研究家の作に接するを無上の利益又た學問として居るのです。それ故に此人の作品には常に新しき生命があるように見へます。研究中の青年諸君は。一つ此心がけを以て。自均が道に忠なると共に。他人の研究振りをも參考となして。
 私の言が當るか當らぬかを経験されなば。我確信を増すの一助ともなりませう。
 ドーゾ。大家とならず。職工とならず。理窟屋ともならず。眞に理想的の名人となられんことを。切に所望します。

この記事をPDFで見る