三脚物語[第二回]

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

汀鴎
『みづゑ』第五十九
明治43年2月3日

 一
 汽車の中の苦しみ話はまだ盡きないが、一寸合の手に、この頃伊豆の湯ケ島べ往つたから、其時のことを少し喋べらして貰はう。
 暮の二十八日、雪でも降りそうな寒い朝、僕は新橋の停車場で、黒い大きい日傘君と同居して主人の手に掴まれてゐた。主人のひとりッ子の正男さんも居た、洋服姿の中川先生も見えた、程なく汽車へ乗つた、幸ひに煙草の煙りの災難にも逢はなかつた、御殿場では富士の雪が少なく、絲でも垂れたやうだと、主人と中川先生と話をしてゐられるが僕には見えない。
 三島といふ處に降ろされた、時計を見たら二時こゝで汽車は乗換だ、今度は網棚がないので窓から四方の景色が見えて嬉しい、富士もキレイだ、韮山といふ處の江川先生の反射爐も遠くに見えた。
 大仁からはガタクリ馬車で、僕等は蹴込の中へ抛り込まれた、コレは虐待と叫んでも見たが、客が多いのだから、主人もドーすることも出來ないのだらう、こゝで、初めて中川先生の三脚君にもお目にかゝつて、いろいろ面白い話も聞いたが、これはいつれそのうち御披露しやう。
 かなり長い間ガタガタ揺られて、日のくれぐれに湯ヶ島へ降ろされた、石高道の、ともすれば★き勝に、僕は正男さんに連れられて、二三丁で宿屋へ着いた、湯本館と大きな看板が出てゐる。プーンと温泉の匂ひがする。
 ヒヨツクリ出て來たのは、鎌倉の長谷川先生だ。座敷がないからといふので兎に角僕等は長谷川先生の室へ這入つた、六畳敷でアマリ綺麗ぢやない、吉田先生が來てゐたので、僕等は更に二階の西洋間といふのに通された。
 シンガホールあたりに在りそうな、白堊西洋窓で、畳が敷いてある、その數は十三畳ある、壁には一面の額もなく一本の釘もない、僕等は部屋の隅へ倚せかけられた。この部屋は船室のやうだといふ人、敎會のやうだといふ人、往つて見ないが裁判處の控室のやうだといふ人もある、何れにしても妙なもんだ。
 十三畳の部屋に主人たちは四人、そこへ前の長谷川先生迄も、座敷を取上られて同居となつた、戸棚も何もないから、合宿所の亂雑は一通りでない、湯から出て來たなと見てゐると、やがて牛鍋のにほひがする、いよいよシンガポール式だ。
 部屋が馬鹿に蒸暑い、先生達も暑い暑いと言つてゐる、それもさうだらう、肉を食つて湯に入つて、閉切つた部屋で澤山夜具をかけて寝れば暑いに極まつてらア。
 あゝのどが渇くと、寝床から這出した先生がある、茶椀はさつき女中が下げてしまつた、先生詮方なしに鐵瓶の口からゴボゴボ。
 いやに眠られない晩だ、船室のやうだなんて誰れかが言つたが部屋ばかりぢやアない、中川先生の繪具箱は、丁度ヱンヂンで燃ゆる油のやうな厭やな臭氣がする、ガラス窓のぞとの月は明るい。
 二
 湯ケ島の景色は、細かい處も澤山あるが廣い處もある、西平橋といふのは、十三四年前に來て雪の中をこの谷に一時間ばかり居たことがあつた、その時のやうに今でも黒く塗つてある。段々猫越街道の方へゆく、橋を渡つてから、主人はこゝらで始めると言つて、僕を枯草の中へ置た。見渡す限り枯草の山で、晴れた日に照らされて、明るく暖かい色をしてゐる。杉の森が所々にある。僕の置かれた處は、此のほかに落合樓の下のゴロ石の中、こゝで主人は靜かな水を寫した。次は下田街道の丸山の近處、西風の強い寒い日だつた。中川先生と一しよに草刈場の山上にも往つた。川下の道端にもこ三時間居た。
 草を刈つて束にして積んである、それは何處でも見受ける伊豆の冬の山の附物だ、是を畫かなくつちや伊豆へ來た甲斐が無いんだそうだ。
 吉田先生は、宿から一里あまりの山の上に、よい處を見つけたといふンで、五十號ばかりの大きなカンヴアスをかゝへて、毎日この冷いのに草鞋がけで出かける、そして日の暮れて後でなくつちア歸つて來ない、大そうな元氣だ。中川先生も、十二號を二枚持つて、半道ばかりの山の上へ日參だ。畫かきには暮も正月もあつたもんぢやアない、元日は雨が降つたので少々疲坊をしたやうだが、それでも十一時頃には出て往つちやつた、中川先生は草叢にヂカ坐りだから、三脚君はいつも御留守居。
 三
 湯本館は畫かきの巣に成つちやッた、黒田先生も來た、久米先生も來た、額緑屋の主人長尾君も來た、おくれ馳せに美術學校の小林先生も來た、鎌倉からは大橋先生、東京から佐藤先生も見えた、素人畫家には、島津男爵家の若様も居る、農科大學の書生さんも居る、ほかにも二つばかり同僚を見かけた、噂にきけば、満谷、石川、永地、松岡、三宅など、歴々の先生達も來る筈だつたといふ、よくも恁う集まつたもんだ、一つ新年會でも開いたらよからうに。
 大橋先生が來た翌日、長谷川先生は歸つた、先生は澤山荷物を持つてゐる、御自分で作らせた繪葉書も四五百枚持つてゐる、繪を入れて見るためでゞもあるか、四ツ切入マツト付の大きな額縁も持つてゐる、先生は手工が御上手で、畫架でも傘杖でも畫板でも皆御自分で製作される、しかも頑丈な、叩きつけても毀れないといふ手堅い代物で、其重量も大したもんだ、先生の無頓着な、そして強健な體格は、荷の重い位ひ何とも思はないんだらう、先生は寫生旅行に恁んなに澤山持物があるが、物を失くすことも平氣で、何時でも五ツや六ツは歸る迄に失くして仕舞ふそうだ、紛失すると、歸りに持物が無くなつて淋しいからそれでこんなに澤山携帯されるのかも知れない、今度も海綿を失くしたときいてゐたが、出機前に鳥打帽子を紛失しちやツた、途中で落したのか、宿で紛失したのか、その邊は一向わからぬそうだ、こんな片田舎で帽子の買へやうもない、詮方なしに外套のゾキンを冠つて出發された。
 吉田先生は煙草★だ、敷島を絶えずスッパスッパやつてゐる、幸ひ部屋が廣いから、僕は左程に迷惑にも思はなかつた。中川、大橋両先生は禁煙組だ。店田先生は、また毎晩一本つけさせる、他の連中はおつき合に一杯位ひやる。
 四
 毎晩牛鍋の匂ひがする、廊下を通ると牛肉屋の二階のやうに、何處の部屋でもプンプン匂つてゐると主人は言ふ、宿屋で小鍋立は、家族的で一寸よいもんだと、初めは歡迎してゐた吉田先生も、近頃は大ぶ參つて、またジワジワかと眉を顰める、こう毎日でヤリ切れない、ストライキでも起さうかといふ先生もある、豈それ鋤焼のみならんやで、ライスカレーにも牛肉が混つてゐる、葱と牛肉の煮つけもある、牛肉澤山のオムレツも田る、何の事はない肉責日責で、料理番もアンマリ智恵が無さ過る、先生達も、偶には新しい刺身も食ひたからう、★焼位ひは出してもよからう、朝は生玉子夜は牛鍋では、精分はつくかも知れないざ、一日や二日ぢやアあるまいし、飽きちまうも無理はない。
 温泉といつたつて、箱根や熱海と比べたら、宿賃なんかも半分位ひだそうだから、餘り贅澤は言へまいが、辨當のおカズに、ヒン曲つた魚は閉口だと吉田先生は言つてるが、ヒン曲つた魚とは、何かと思つて見たらそれはゴマメだつた。
 女共の氣の利かないことも夥多しい、呼リンが鳴つても中々出て來ない、元日に、先生達は八時過に起きて、飯の來るのを待つてゐたが、中々來ない、十一時頃になつちやつた、そこへ、ヒヨツクリ宿の主が、年始の挨拶に來た、くどくど言ふ、お目出とうなんか眞面目にきいてゐるものはない、奥の方に居た吉田先生は、「飯を早く持つて來て下さいと」極めつけたので、主は面喰つて引退つちやつた。
 宿屋もそうだが、湯ケ島といふ村も不自由な處だ、堂々たる郵便局がありながら、元日早々ハガキも切手も賣切だ。村には碌な菓子屋もない、蜜柑といつたら一銭に四ッ位ひの、東京ぢやア見る事も出來ないやうな、種澤山の小ぼけの奴ばかりだ、不平なのは正男サンばかりぢやアない。
 湯ヶ島でよいのは景色と温泉だけだそうだ、他の季節は知らないが、冬の枯草山は確に面白い、五六丁も山へ登ると、眺望もあつて一層面白い、も少し高く登れば海も見ゆるそうだ。しかし山登りと來ては、第一番に閉口するのは大橋先生だ、「毎日こんな山を上り下りしなければ繪が描けないといふことになうなら、畫かきは廢業だ」なんと弱い音を吐ひてゐる。
 浄蓮の瀧も立派なものだ、大して高くも大きくもないが形がよい、四方の工合がよい、夏は定めし涼しいこだらう。
 五
 磯谷のオヤジはよく喋る男だ、「君達は遊びに來たのか金儲に來たのか、人の遊んでゐる時、繪なんか畫いてゐて、入費の二三十両も使つて二百両以上の仕事をしてゆく、畫かきなんて旨いもんだな、俺も畫かきになればよかつた」、「一髄金のある奴で畫の好きな奴はない、畫の解る奴に金を持つてゐる奴はない、絡の解る奴に金を持たしたいよ、金のある奴に繪を好く様にさせたいよ」、「アメリカぢや、機械で一日に三千本も額縁が出來る、日本では十年でも三千本の額縁は使ひ切れないや、コンナこつちや詮方がネー」、まアこんな風な氣焔だ、この男の事を皆なで三千本とアダ名をつけちやツた。
 夜は賑やかだ、大供連も正男さん相手に何時か子供になツちまうと見える。
 積將棋が始まる、ガラガラと倒すと、ソラ、ヤツタくと手を打つて喜ぶ、トランプは盛んだ、「今度はダイヤの切だよ」なんで夢中になつてる、碁が始まる一番強いのは中川先生だ、一番弱いのは僕の主人だ、一體これ迄僕の主人が碁をうつたのを見たことがない、何處でやつたのか何時やつたのか、兎に角四ッ目殺し位ひは知つてゐる様子だ、吉田先生が白でやつて負けて、次は僕の、主人が白で負けた、三度目には一周も違はぬといふアイコだ。丁度よい稽古臺とでも思つたか、吉田先生は頻りに主人に挑む、主人は逃げる、盤を突付ての強制的に、主人も石を持つ、負ける、三目置く、負ける、井目でも同じこつた、吉田先生も張合がなからう、主人も面白そうにやつてゐるが、盤に向ふてゐる時さへ愉快なら可い、勝負はどうでもよいと云つてゐる、負惜みか本心か知らないが、ドーモ主人は勝負事に熱の無い方だ、勝負事ばかりならいゝが、肝心の畫でもさうだ、畫を描いてゐるうちが面白い、其繪が旨く出來たら猶嬉しいが、出來損くなつても平氣だ、結果なんかドーてもよいと言つてゐる、眼中世間なしで結構だが、少し早く悟り過ぎたやうだ。
 

湯ヶ島大橋正堯筆

 六
 湯ケ島には十日泊つて、僕は再びガタ馬車の客ぢやアない荷物になつた、今度は馭者臺へ乗つたので何處でも見える、幸ひの好天氣、お負けに頗る暖かい日だ、天城の山を後にしてゆく心持はいゝが、時々馬の尻尾で撲かれるには閉口する。大仁橋の近處はよい景色だ、汽車は大混雑、それは三島紳社のお祭りだからといふごッた。
 三島の乗換にブリツヂの梯子を降りる時、どうしたハヅミか正男さんが足を踏外して三段ばかり堕ちた、オヽあぶないと皆ンなが言ふ、正男さんは平氣な顔をしてゐたが、向脛を少く傷めたやうだ、僕は幸ひ主人の手元に居たから災難を逃れたが、正男さんに持たれてゐるやうもンなら、あの硬いプラツトホームの上へ拠り出される處だつた、僕は平生も、正男さんに持たれるのは嫌ひだ、歩行ながら石の突ついて見たり、水をかき廻して見たり、道わるを曳褶つたり、碌なことはしない。
 夕方新橋へ着いた、東京の風は馬鹿に冷たい、宅べ歸つてこの夜は玄關の隅へ置かれたが、明日からはまた畫室へ戻つて、イーゼル君や額緑君に逢つて留守中の話でもきかう。

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