ゴバルト

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汀煙
『みづゑ』第五十九
明治43年2月3日

 ゴバルト、自分はこの色を追想するたびいつも一種夢幻的愉快を感ずるので、自分ながら不思議に耐へられない、例令ば自分が懊悩煩悶と云ふ様なクダラなき場合にも、このゴバルト色を追想するならば、奇態にも忽ち心中爽快として、丁度暗黒な渓谷中より一目茲に展開せる一大曠原に出でたかの様、得も云はれぬ心地になるので、ゴバルトの擴大なる威力には今更ながら驚かされて居る。
 同じ寫生をするにしても、どうもゴバルトの多い所に尻が据はる、遙か向ふを望めばゴバルトに少しくクリムソンレーキを加べて鼠がかつた色、夫れが段々前に來て中景の淡いエローと衝突し、互ひに入り亂れて戦ふ其色の美しさ、自分は夫れを見たら殆んど他の色は眼界より忘却して仕舞ふで、何んでも其計を描く氣になる、サテ板に向つて見ると其好きな色が中々出て來ない前景のパットエローに燿いて濃いインヂゴーやグレーの陰などは、ともすると落ち合ふ事もある、左れど遠いゴバルトやグレーだと塗る内に、ナゼか色が汚くなる又重過ぎるとか寒む過きるとか行る度に失敗のみ、何時も自然の清新な神々しい氣色が出來ぬ、之れは自分が未だ夫れに對する力の足らぬ故でもあらうが、左りとて又餘りに歯痒い次第、で、段々考へると、コー云ふことが胸に浮んで來た、即ち先生が常に調子とか色の對照とか云ふ事を云はれた、其調子の如何によりては夫れでない色も又サウ見ゆると云ふ事である。
 自分は實に夫等の重要事を沒却して居つた、如何に立派な美しい物でも只の一つで繪には成らぬであらう、即ち構圖の方法とか、色の調子、明暗の度合なぞ、あらゆる順序を完備して研究するならば、始めて自然の眞に迫るに及ふであらう。
 自分の好きなゴバルトは斯くして徐々に成功の域に近きつゝある。

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