歌川廣重傳[二]


『みづゑ』第五十九
明治43年2月3日

 天保の初年、廣重、或人(諸侯か或は旗下)に随行して、京師に 赴き、行々山水を見て、深く感ずる所あり、これより專ら山水 を畫くの志を起せりとぞ。(三世廣重の話)
 按ずるに、綾垣羅文(綾垣氏は、姓名詳かならず、根津に住せし酒店の主人にして、三世廣重の友人なり、好事家なりしが、二三年前没したり、惜むべし、)といへる人のしるせし廣重翁が小傳に、會々幕府八朔御馬進献の事あり、翁供奉して 京師に上り云々とあり、八朔御馬進献とある甚だ疑ふべし、殿居臺を閲するに、八月朔日五時白帷子、長、八朔御祝儀三千石以上、太刀、目録、御馬代、献上之、大中納言、參議、 中將、少將、侍從、四品、五位之諸太夫、布衣以上無位官無之而々嫡子共、御禮申上云々、都而年頭之御禮式に准ず云々、 右は天正十八寅年、當日關東御打人之御恒例にて、如レ斯御祝 儀始と申傳ふとあり、羅文子が八朔御馬進献といへるは、蓋し御馬畿進献のごとなるべし、されば廣重は、畿内の諸侯或は旗下の人の八朔御禮として、江戸に出てたるに随從して、 京師に赴きたるものなるべし、よりて考ふれば、廣重は、此の頃既に火消屋敷を出でて、大鋸町に住し、專ら浮世繪を業とせしならん、しかしず、定火消同心の株は、文化の末か文政の初、譲りたるものか、猶考ふべし。
 又按ずるに、此の時廣重は、驛々の景色を寫し、叉日記にもしるしたり、其稿本は、傳へて其の家にありしが、三世廣重これを出だし、表装して二巻となし、某に譲りたりとぞ、其の所在今詳かならず、或人曰く、廣重が東海道を往來せしは、唯一回にあらず、?々往來せしなり、然らざれば?々圖をかへ出板すること、能はざるべしと、蓋し然らん、一説に廣重嘗て山水を畫ぎ、自ら其の眞を爲ず能はざるを嘆し、四方に遊び、遍く山水の勝景を探らんとせしが、旅費の給すべきなし、如何ともする能はず、其の妻これを察し、矯におのが櫛笄衣服を賣却し、若干の金を得て、これを旅費に供せんを請ふ、廣重大に喜び直に懐に入れ、家を出でゝ、放遊すること殆ど三年、胸中既に名山勝水を貯へ、江戸に歸りて、山水を畫く、一に意の如くならざるなし、これより畫風一家をなすと。
 又按ずるに、一説に、廣重の京師に到るや、其の名詳かならされども、四條家の人に就き、四條の畫法を學ぴたりと、山水畫中往々四條に似たる所あれば、或は然らん、又一説に、廣重は、大岡雲蜂に就き、南宋畫を學びたりと、これまた書風の少しく似たる所あるを以ていへるか、雲蜂は、江戸の人、名は、成寛、字は、公栗、通稱次郎兵衛、山水花卉に長せり。 天保二年、東里山人作、出傍題無茶論六冊を畫く。(岩戸板)
  同三年、柳亭種彦作、ふしみときは熊坂物語後編二册を畫く、 前編は、國貞なり(西村板)、此の頃、風俗美人畫および鳥羽繪 を畫く多し。
  同五年、柳亭門人、瓢亭吉見種繁作、旗瓢菟水の葛葉六册を書 く。(鶴喜板)
 按ずるに主吉見種繁は、姓名詳かならず、作者部類に、種繁は、種彦の弟子★、天保四年の春新板に、改色團七島(西村屋板)といふ臭草紙の作、見えたり云々。
 又按ずるに、草雙紙の畫は、廣重の長ずる所にあらず、されど地本問屋の依頼なれば、止むことを得ずして、畫きたるものならん、されば廣重が畫きし草双紙は、僅に五六部に過ぎざるなり、天保五年以來嘗て畫きしをなきがごとし。

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