寄書 松原天彩畫塾新年會

KW生
『みづゑ』第五十九
明治43年2月3日

 大坂と云へば煙挨を連想する中で、雀中の一鶴より以上の光彩をはなつ此塾も、一月の十五日を期して例年の通り新年會が開れた。僕がいつた午後六時過ぎには早や大多數の諸兄は、我こそは一座を驚かさんものと。顔に出してはないが思つて居るに達いない、サア大變藝無しモンキーの僕等には一番に畏怖心が起つて了ふ程の勢、獰猛の極、瑞氣満堂等の古くさい匂ひは少しもしない。
 先づ第一にA君を中心として源平戦、先生を軸として散らし、お次ぎは全部一團となつて扶桑武士歌留多の散らし亂戦で、A君等は仲々の勇士、飛鳥の如く敵畳に突進せられたが、洗兵の結果はA君組の敗であった。
 一寸中休みで膳が出た、席が決ると皆静まつて着席する、先生の挨拶があつて後はブレイコーだ、居列ぶは三十人近くに、皆別品さん御三人、B君がアミーバめ鳴き聲の様な少さな聲で三味線を注文する、早遠絲の音がサアーどうそと合同して出る、處がB君やりまへんネカナ、ソンナラ僕がと出陣ましましたのはC君、本郷座で奮つた腕をミトオクなはれ、と前藝、大マネキ小マネキの手付で既にた櫓物ならざる事を示して、いよいよ本藝、實に技神に入る、大出來だつた、それではとD君が『梅にも春の』、先生のヤリはさびても引續いて日頃の苦心今こゝぞ打ち出で給ふ、武士は、E君D君。D君の吟聲で本能券イイ溝の深サアバと先生秘藏の一刀借用で劒舞。お次ぎはB君の琵琶一曲と出られたが、バチをわすれたので四十五度の定規代用をつとめ、それ達人は大観す…勇みに勇さむはやり勇の、チエスト、ヨイシヨ、大勢の獲聾で中途たち消へ、相墜りまして盃一順二順、エイめんどくさいと盃の空中旅行、最とも飛行器等と七六ヶ敷ものはいりまヘン、十時が十一時が御勝手にと、先生の變装、F君の針のみ術、合同變装、門つけ、何れも寄抜ならざるはなき中に、又一風かわつて、先生、御令嬢、D君の三人、兼て先生御教導の謡曲一番。終つてーしきり三味線が入つてラツパ節、サノサ節、或は舞ひ、踊り、歡藥其極に達した頃、長い御相談の結果で主御令嬢、G君合奏の琴『干鳥の曲』、琴の餘韻であらうか暫時場中が静かになつたが、御付添の別品さん、スンマヘンけど、それな野暮な事はしまヘンと腕を立てゝの大活動、俄かに藝を増して、種々のものをたゞく、H君が塾中で有名なノト節――やらいのうへと又静かにやり出す、續いて學生節をウナリ出す、動物園を開演する、入り變り立ち變り大笑ひで、笑ふ門には福來る、今年も勉強して來る文部省の展覽會には福の神の御助力で名譽の月桂冠でも得られる様と二時迄打ち續けて、君が代、と最終に唱ふてワンワンワンワンと閉會を告げた。
(一月十六日)

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