美術談叢 研究上の自信

石川欽一郎イシカワキンイチロウ(1871-1945) 作者一覧へ

石川欽一郎
『みづゑ』第六十
明治43年3月3日

みづゑ 第六十
  明治四十三年三月三日發兌
  美術談叢 石川欽一郎
  b:研究上の自信會員諸君中には初學の方々と。又た一と通り進歩せる方々とあるべし。初學の間は何事も先輩の指圖に從ひ。教へられたる通りにさへして居れば自然に上達するものにて。從順に勉強すると云ふが其心得なりと雖も。既に一と通り出來上つた曉には。最早我にも一人前の考ある故。そう何事も人の云ふ通りに計り出來るものにあらず。否寧ろ少しく我考をも持出して彼之研究するに於てに。我新らしき發明の資ともならん。之は我自信によるものなり。
 人誰か自信なからん。况や畫の如きは全く畫家の腕次第にて現はれ來る一種の魔術なれば。我考なくして作り出さる可きものにあらず。君は此道を行け僕は此方より廻はらんと云ふが自信なり。去れば我技の進むと共に我自信も益々明瞭になり來るべし。
 併し自信は人によりて不健全に發達することあり。之を傲慢と稱し俗にお天狗と云ふ。之れでは折角の自信も役に立れず。反て我害となるべし。
 自信に依り我目的を立つべし。即ら畫に對する我方針な云ふ。之を立てたる上は之に向て努力出精すべし。人が如何なる批評を加ふるとも一向無頓着にて可なり。自分は自分の考を以て研究するもの故。人の云ふ事を一々氣にして居た日には毎も中途にマゴ付いて目的を達すること能はざるべし。但し參考として人の批評を聞くことは差支へなしとするも。其批詳に對しては我考を基とすべし。我考に一致する批評は當を得たるものとし。然らざる批評は駄目として顧みざるも可なり。此の如くして追々研究する中には。今まで自分が好しと信ぜる方法に不滿足を感ずる時期來るべし。之は我技術と見識の新發展を爲せる徴として大に祝すべきものなると共に。今まで取り來れる方法の不充分なるを知れば早速に變更すべし。之は我自信の薄弱なりし爲めには非らず。寧ろ我自信の進歩なれば。其度毎に何遍我方針を變ゆるとも少しも耻づ可きことなし。人の批評に左右せられたるに非らずして。確かなる我見識より來れるものなるが故なり。雨降りに傘をさして外出したる處が。途中で晴れて來た故傘をつぼめるが如し。初めに傘をさしたるも我自信ならば。後に傘をつぼめたるも亦我自信なり。此爲め外出の目的には何等の關係なしと知るべし。併し前に述べたる天狗的自信と。頑固偏狹なる自信とは篤と反省して避けざる可からず。此の如き間違の自信に依れる畫家は。其技術漸く老熟の域に入らんとする頃。早既に老衰の境に在る事世間に其例尠なからず、其原因たるや。技術に忠なるよりも。寧ろ餘りに我自信に忠なりし結果なるべし。自信は道を究むろ爲めの手段にて。目指す處に奥妙なる畫の神膸なり。それに我自信を過重して。之に依り凡てを判定せんとするが天狗畫家の天狗たる所以なれば。斯る心得違ひにては。技術が鼻の高さに反比例するも亦怪しむに足らざるなり。
 人に謙遜なるべしとは修身で能く聞く事なり。然ば如何なる事が謙遜なるべきやと云へば。即ち我に我分を守り。人に對しては人の分を認めて其差別を侵さゞる事なるべし。畫上健全なる自信も亦之に外ならず。無闇に謙遜して尻込みするも不可なれば。やたらに傲慢なるも不可にして。何れも眞の自信にあらず。諸君願はくば此譯柄を悟りて。本當の自信を基として勉強ありたきものなり。

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