初學通有の缺點

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

大下藤次郎
『みづゑ』第六十
明治43年3月3日

 某の日、評箋を展べて會友諸君から送られた製作を見てゆく、風景あり人物あり、静物あり、水彩鉛筆、各人別樣の觀察描法によつて、おのおの眞面目に畫かれてある、それ等の繪は諸君に於て全力を盡して製作されたものであらう、私は、いつも多大の敬意な拂つて詳細に見てゆくのであるが、其佳所はとに角、病處は一般を通じて殆ど同一である、これ軈て斯道に學ふ初歩の人々にも通有の缺點ではあるまいか、こゝに重なるものを記して、其例を示すことは、一般讀者にとりても無益ではあるまいと思ふ。
 A君の作に、對岸の樹木の、やゝ亂れて映れる川の繪がある。此水面が平に見えない、そして透明體に見えない、平に見えぬ原因は、樹の映れる有樣を眞實の如く寫さんとする熱心から、徒らに筆數のみ多くなつて、色彩が混雜し、大タイの調子が忘れられれからである。その透明の感の失はれたのは、使用の彩料の選擇を誤りしと同時に、下塗の乾かぬうちに、更に色を加へて、畫面の上にて彩色の混合を生じた結果に過ぎぬ。
 同じ人の作に、家屋を半分畫いたものがある、前景に葉の無い雜木が二三本ある、これが邪魔をして折角の繪を傷けて仕舞つた。繪に簡潔にありたい、一木も除くべからず、一石も加ふべからず、といふ處に味ひがある。其繪に無くてならぬものの他は省略した方がよい、少くとも、有つても邪魔にならぬ程度に置きたい、これ有るが爲めに全體に害があるものに取去るべきである、若し此雜木にして、今少し正直に叮嚀に寫されてゐたなら、未だしもであるが、隅の方だからとの考かは知らぬが、亂暴に畫いてあろから、益々面白からぬことになつたのであらう。
 この繪にはまた鶏が二羽畫かれてゐる、前景に居るのに拘はらず、いかにも影が薄い、透明してゐる、前景に且主點に近い處にある動物は、モット確り畫くべきものである。添景人物などにも往々透明盟のを見受くるが、衣服の色、殊に紺色の着物など、隨分黒く判然と見えるものであるから注意して欲しい。
 他に白菊を畫いたものがある。説明書を見ると晴天とあつて、背景の工合で見ると、菊には日光が直射してゐろ筈である、然るに、其白菊は名の如く紙の地を其儘殘した白菊であつて、光線に浴してゐるそれでにない。室内で畫いたら、室内の光りがあらう、バツクの反映もあらう、純白でなく鼠色になるであらう。戸外であつて、物の蔭で日光の直射がなかつれなら、空の色の反映で、白菊は藍を含むであらう。若し日南に在るのであつたら、是非共太陽の光線の色が、菊の花の上に見えなくてはなるまい、これ無きがために此繪は寒い見すぼらしいものとなつた。
 B君の繪を見る。小川を中心として堤の上の枯木を畫き、背後は山麓だとかで、空の見えない繪である。まづ第一に驚ろかるゝは、其色の如何にも貧弱なことである、枯草の黄はあらう、うら淋しい黄はあるが、それは决して暖かい色ではなく、全體が寒色ばかりで出來てゐる、枯木の幹、それは墨とインヂゴーで畫かれてゐる、背景の山も同じく青黒い、見てゐて實に悲しくなるやうである。如何に冬は色彩が沈静であろからとてこのやうな事はない、結局自然の色の見方の粗末なことに歸する。またこの繪は、其構圖の上から見ると、自分の足元迄も畫いてあるやうであつた、後ろにさがる事の出來ない場合もあらうが、畫の底線は少なくも足元から二間位ひの處に止めたい、あまり遠方を底線とするのも惡いが、あまり近いのは猶更いけない。
 静物畫がある。密柑と林檎が畫いてある、位置はよい、林檎も密柑も可なり圓く見える、併しこの果物の物質の區別がない、たゞ形と色とによつて其何物なるかを知るのみで、滑らかなる林檎の皮、粗面をなせる密柑の皮の區別は畫き現はしてない。また此等の果物には、タトへ幾分暗い處で畫いても。元々圓形のものであるから、其一部分にハイライトがある筈である、一番先に光りを受けた處が、幾許か白くなつてゐるのが當然である、然し此繪にはそれが畫いて無かつた、爲めに光線の來た方向が一寸分らなかつた。
 次に、此繪にはバツクが畫いて無い、静物を稽古するには、まづ寫すべき物と共に、其背ろの物も畫かればならぬ、其背景の色と靜物の色との關係など最も大切である、それ故、布地なり何なり材料の背ろに置く、それを畫かぬ時は、决して林檎でも密柑でも眞の色彩が出るものではない。
  描法に於ても批難がある、此寫されたものは何れもカチカチで、八百屋の店に半歳も晒されてゐたやうである、指で押せば柔かく、爪を立てれば水が出るやうにはどうしても見えない、これも前の水面の例と同じく、筆使ひのみ細かく、且幾度も上へ上へコスリつけたためであらう。色の潤澤を保とうといふには、處要の繪の具を筆につけれら、畫面へ其儘置て來るやうにせねばならぬ、そして乾くを待つて更に繰返すもよい繪具が紙の上に滴るやうに置かれて、自然に乾いたなら、必ず光澤あり水々した感じが出るであらう。
 C君の作は何れも鉛筆である、その一枚には石塊、破瓦、並に二三の枯葉が寫してある、材料の取合せは面白い、殊にこのやうな簡易な材題を捕へて研究の資料にしたその精紳は嬉しい。併し此繪には、鉛筆畫を以て細かい調子迄も描き現はさうとしたために、物の形が混雜し、濃淡の調子が弱く、物質の説明が足りなくなつた。鉛筆畫では餘程の熟練の後ぐなければ微妙な調子か寫出されない、また深い暗い處を畫くのに困難である、鉛筆畫は寧ろ形の上の稽古に用ひて、細かき濃淡の調子の如きに一色畫に讓つた方がよいやうに思ふ。石塊といふ重いものに、木の葉といふ輕いものを配してあつて、成程形の上からは區別がつかぬでもないが、其物を畫く時の力の入れ方が平等であるためか、石に少しの重味も見えない。木の葉に少しの輕さな覺えない、自然の有する輕重の感じが畫に現はれない。
 鉛筆に細かき濃淡を現はすに不充分であることは前に述べたが、然らば如何にしてよきかといふに、これも大タイに目をつけて、先づ明るき處と暗き處を分ち、漸次中間色に及ほしてゆく樣にする、そして極暗き處は、なるべく一度で強く鉛筆を使用して、幾度も上をコスらぬ樣にする、また光りの方は、紙の地を殘して置て汚さぬやうにする。少しばかりの濃淡は大目に見てしまふ。若しこのやり方で氣が濟まず、是非微細の點まで畫き現はし度となら、鉛筆は硬いのを用ひて、初めから叮嚀に着手しなければならぬ。
 錯筆畫に於ても、その畫に入用なものば一點も取除けることは出來ぬが、許すだけ無駄な線は畫かぬやうにせねばならぬ。
 D君の繪を見る。水彩畫て鐵道線路を中心として雜草などが畫かれてある。この草に異議がある。草原を見れまへ、日に面して見る時、暗い方から明るい方を見る時、場合によつては、草が暗く一本一本其形を示してゐることもあらうが、通常は暗い中に草の葉が明るく現はれるのである。それを日本畫でやる樣に、草を一つ一つ暗く線で畫いたのでは、自然の心持は出ない、全然寫生でなくて想像畫である。兎角草はコンナもの、石はコンナものと自分極めで、寫生してゐながら寫すべきものをよく見ないために、如斯誤りを生ずるものである。
 E君の繪には、何物に感じて此作があつたかを知るに苦しむ、繪に中心がない、纒りがない、文壇では近來平面描寫とかいふことが流行するさうだが、眼に訴へる繪畫ではこの論は成立たぬ。それも今少し精細であつたなら、多少の感を惹かぬでもないが、亂暴な描き方では、單に不得要領の評語に盡きてしまふ。他の 一枚は、農家に暖かき日光を受けたる圖であるが、其屋根も板戸も壁も、地面も、皆同一の色彩てあつで、藁屋根といふ暗色の上の光線、板といふ物質の上の光線、地面といふ重々しいものゝ上の光線、それ等の區別が毫も畫いてない。由來、空氣の色、其時の太陽の光線の感じは、統一を要するために、初めに一樣の色でワツシをして畫いてゆくのが便利であるから、この繪のやうに、光線の色が何處も同一であるのは差支ないが、それは初のうち丈けの話で、寫生が進行してゆくに從ひ、當然各特有の色彩が加はつて區別が出來なければならない。
 此繪には遠景がある、それが山であるか森であるか林であるか分らない。自然がボンヤリしてゐて分らないのならそれでよいが、此繪の空氣によつて見ると、ドーしても、只々遠方だからコノ位ひに描いて置け位ひの、不眞面目な考から出たやうに思はれる。一の畫面、それは空であらうと地であらうと、遠景でも近景でも、描寫の手段、亦は結果の上に、多少の工風か要するは勿論であるが、觀察は何れも平等に深き注意を拂はねばならぬ。
 F君の繪は、甚だ綿密なスタディで、自然風景の一部を、静物畫的に詳細に寫してある、時としてかゝる態度によつて研究するのはよい事であらうと思ふ。併し、戸外に自然物を寫すといふことは、タトへ曇天であらうとも、光りの推移もあらう、他物の反映も多からう、それ等の點に研究の痕がなくては、折角の苦心も無益に終るであらう、徒らに形や色の上にのみ心を傾けず、自然の性命を捕へるやう心掛けて欲しい。
 G君の作三點。筆も達者である、よく大體を見てあつて、描法にも力がある、色彩も豊富で、調子も整つてゐる併し、惜らくは、そのうちの一枚は、畫を眞中から切つて二つにしたい、即ち中心が一枚の繪の中に二ヶ所あるので、注意が集まらない。これに寫生などに出掛けてよく出逢ふ事であるが、あの家も入れたいこちらの森も入れたいと思ふ時、其何れか一つを割愛する勇氣なくして生ずる失敗である。即ち、種々なるものに興味を持つた爲めであるから、如斯場合には、寧ろ二枚の寫生を試むることをお勸めする。
 他の繪には、廣く且明るい道路を前景として、並木及び神社などが畫いてある。上半分は批難がない、下の道路は、廣いのに不拘、只一色で塗っただけて何物も畫いてない、それが爲め、圖が上部に偏して釣合が取れない、此際地上に木の影を出すとか、石塊を散らすとか、何か工風があつたらよからう、それが出來ぬのなら、地平線を低くして道路の部分を狹くするのもよからう。
 H君の静物畫、この人の繪には、日向ばかりで蔭影が殆と描いてない、圓もいのも四角なものも、すべて日本畫のそれの如く、平面に見て仕まふ、そしてほんの申譯だけに。淡い淡い影がつけてある。光りを受けた方が明るければ、それ丈け蔭の方は暗くならねばならぬ。此人は蔭の暗い處を見る眼が無いのである、それは墨繪の修養の少しもないといふことを證據立てるのであるから、かゝる人達は、當分繪具箱を閉ぢて、鉛筆から一色畫といふやふに、是非墨繪を充分學んで貰いたい、そして簡單なものを畫くに透視畫法の誤りな生ずるが如きは、眼の修練の不充分な爲めであるから、是又大に修養を勉めねばならぬ。
 I君の作は、通じて物の見方が消極であつて、大膽に自然の感じを寫してゐない、恐る恐る筆を執つてゐるやうで、弱々しく、半成ではあるまいかと思はるゝものばかりてある。そして、遠景は甚しく遠く、近景には、厭ふべくうろさきタツチが澤山ある、また、常に畫面を洗ふて調子を和らげんとせらるるが、洗ふと云ふことは、一種の畫風として不可ではないが、何でも水彩は洗ふものと極めるのは間違である、洗つたやうな感じの場處を寫す時にのみ爲すべきことである、洗ふ事に極めてゐる專門家も、西洋に無いことはないが、それは何時でも、洗はなけれは感じが出ないといふ樣な場處ばかりを、畫材にしてゐるのだから、一向差支ない。また畫面を洗はなくとも、淡い繪具を幾度か重れてゆけば、洗つたと同一の効果を得られる。やり樣によつては一層深く和らかな感じも出るのである。
 此人の作品には、色の見方の不親切な點が多い。一基の藁塚、それに日があたてゐたら、赤を含むだ黄に見えやう、併し、それは日のあたつてゐる部分のうちの一局部であつて、他の大部分は、種々なる色が含まれてゐる筈である、それを皆一樣に、赤黄の色で塗つてあつて、自然の細密な現象を殆と度外視してゐる。啻に藁塚のみでない、空でも水でも同樣で、空は、一の大なる幕を下げたやう、水は白布を敷いたやうに、たゞ一樣に見てあつて、深い研究が少しも無いのである。
 J君は、大作三點。それは繪の大作といふのでなく、畫面の大きいといふのである。他の諸君の作にワツトマン八ッ切位ひのものであるが、J君のは四ッ切である。四ッ切、二ッ切、大なるものは筆も伸び骨も折れて、從つて利盆も多いから、出來ることなら大きな畫を作られんことを御勸するが、然し、これは其人の技倆と、時間と、場處とを考へなくてはならぬ、碌々木の幹一つ滿足な寫生の出來ぬうちから、大きなものを始めた處で纒りやうがない。一枚の繪に幾日も通ふ丈けの時間もなくして、四ッ切位ひを一二時間で畫き上げやうといふのは無理な話である、小さな紙ても充分描き得べき場處かを、殊更に大きな繪を持出すにも及ばぬ、大なる畫面に粗雜な描寫を試むるよりも、小なる畫面に纒まつた繪の出來てゐる方がよいと思ふ。
 J君の繪の缺點は蔭影の色にある。昔しは、水彩畫の蔭影の色はセピヤでよいといふ時代もあつた、表面の色が出れば、蔭影は黒くさへあればよいとしてゐた、近來に反對だ、表面の色の生死は蔭影の色如何にある蔭影は黒いものでなくて暗いものてある、表面の色は割合に單純であるから寫し易いが、陰影の色は複雜であるといふことになつてゐる。然るに、J君の繪の蔭影の色は、紫がかつた鼠色で、地面でも橋でも藁束でも、皆一樣に畫いてある、絶えて蔭影の色の研究を見ない、物質が異なれば、其表面の色の異なる如く、蔭影の色も違がふ、同一の物體でも、距離によつて相異が生ずる、この點に注意して、蔭影の色に變化を與へぬ時は其繪は貧弱となる、暖かな愉快な感が起らずに、寒い淋しい感が起つて、直くに飽きが來る。
 K君の作は小兒の肖像畫である、普通四ッ切位ひに半身像を畫くには、少なくとも一日三時間宛六日間位ひ、モデルに向つてゐなければ爲上らないものである(尤も一寸した感じだけなら三十分でも一時間でも出來やうが)、この繪は僅か四五時間で爲上げたものらしく、未成品である。水彩繪具で肯像を描くことに、風景を爲すよりはムヅカシイとしてある、併し、これは稽古次第で、たゞ風景の方が束縛が少ないからラクであるといふ迄で、眞面目に寫生する上には大して相異のあるものではない、が、此畫に於ては、作者に充分素描の經驗がない爲め、輪廓に誤りがある、解剖學を引張り出す迄もなく、人の顔としての耳目鼻口の位置に必然の約束があるが、多く人々の誤るのに、鼻を實際より長く畫くことである。此繪の誤りも同じくそれである。一タイ輪廓といふものは、繪の上に第一の基礎となるもので、これは出來る丈正確でなくてはならぬ、形を正確に見ることを習ふため、同時に濃淡の調子を正しく見出すために、タトへ風景畫家であつても、石膏や人體について數年間木炭畫の稽古をするのである、それ程大切のものであろから、此の點は特に心を注がねばならぬ。次には、物に光と蔭とある、其光りのうちにも階級のあるが如く、蔭の中にもまた蔭があるこれもよく見出さねばならぬ、それから、マトモの光りの他に、反射といふものがある、即ち蔭の中の光りで腮の下などによく出る、また頬などにもある、是を、兎角強く見て、實際よりも明るくしてしまふのが常である。
 髪の毛がブラツクで描いてある。髪の毛は黒いものだといふ觀念が先に立つて、よくモデルを見ずに畫いたのであらう。黒い髪の毛も、其時の光りの工合によつては、赤味か帯ひ、又は青味を帯ひ、時としては紫にも見えやう。先づ畫く前によくモデルを觀察して、其相貌や髪の毛の色やを一通り會得し、後ち筆を取つても、一々よくモデルと比へて見て進行してゆくならば、大なる間違なしに繪が纒るであらう。
 人物畫に於て、顔は相應に寫せても、着衣となると充分の研究が出來てゐないのが多い、肩の張り工合、胸の出た樣子など、大きな調子でそれが見えなくて、たゞたゞ、着物の縞柄など細かに畫いてある、それもよいが縞柄や模樣が見えるだけで、其着物が、絹であるか毛織であるか麻であるか木綿であるか分らぬ、せめては絹の光りと木綿の皺位ひ區別がつけて欲しい。
 私の見た繪は、まだ他に數枚あるが、何れも大同小異である。要するに、概して形の上の缺點は、透視畫法の間違、統一のない事、物質の分らぬこと、色の上では、★濁不透明、貧弱等であつて、それ等は皆、自然を見る上に、觀察の不注意粗漏より起因するものが多い、諸君は、以上列記した缺點を、自己の繪の上に照して、公平に考察せられたならは、自から發明さるゝ處もあらうかと思ふ。
  會友諸君に於て、此評言に對し御心當りの方もあらんが、この文は、批評後數日にして書きしもの故諸 君の繪とは相應せぬ點もあるから、諸君は、當時添付した評箋を、正しきものと御承知置を乞ふ。

この記事をPDFで見る