三脚物語 第三回

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

汀鴎
『みづゑ』第六十
明治43年3月3日

 汽車の綱棚の上で苦しむのは煙草の煙りばかりぢやァない、無作法な人間は、イキナリ僕の上へ重い革鞄なんかを乗せる、コイツを耐へてゐるのも一通りの苦勞ぢやァない。主人は長い道中には二等と極まつてゐて、近い處は混雜してゐる時のほかは三等だ、僕は日本の汽車の一等へ乗ったのはタツタ二度きりだ、どうかすると連れがあつて、かなり長い處を三等でゆくこともある、この時に苦しいのは川舎女の髪の臭氣だ、夏向と來たらソレコソ耐らない。
 あまり混雜してゐる時には僕も引張り出される、碓氷峠を越すとき、箱を減らすので急に澤山詰めかけた、長い間たつてゐろのも氣の毒だと、主人は僕を引出して、見ず知らずの人に貸した、幸ひ痩ぜた書生サンで重くになかつたが、僕等の上に乘つかつたが初めてだから腰が落着かない、モヂモヂと何度も捻られたには聊か閉口した。
 たしか山陽線だつたらう、ある夜、客が一ばいで、列車付のボーイが立ち誥だから、主人はコレへ腰を掛けたまへと言って、僕を床の上へ置いた、このボーイ甚だ謙遜家で辭退したが、前に居た老人は僕を見て、 一寸拜見と來た、コレは便利なものですな、私は器械類が好きですがね、コレはどうも重寳だと、大に褒めそやして、連れの若い娘にも見せた、コノ時はサスガの僕も少々ボートを來たよ、その娘は頗る美人だつたからね。
 

早春大下藤次郎筆

  二
 苦しい話をモー少し爲やう、夏の炎天に燒けてゐるやうな河原に据へられた時。脚が焦げるのぢやアないかしらんと思はれて、吾知らずオゝ熱い!と叫びたくなる、今考へても厭なのは、秩父へ往つた時、三峯の山下で、何でも荒川に架つてゐる橋を寫すといふンで、四斗樽醫油樽位ひの、大きな石がゴロゴロしてゐる間に僕は置かれた、節は八月中旬、時は正午少し過ぎ、口にヂリヂリ照りつけて、風といふものは藥にしたくもなく、黒焦色の石からは陽炎が火のやうに立つてゐる、焚火を取圍んで時々熱い思ひもするが、そりやア暫時のこと、この時は二時間ばかり身動も爲す神妙にしてゐたが、自分はコノ儘こゝで燒死んで仕舞うンぢやアないかと思つた、こんな苦しみは後にも先にもない。しかし、寒い方にも負けない苦しみがる、薄氷の張つたジクジクの處に、よく長い時間を置かれるが、腰を掛けられると段々泥の中へ滅り込む、冷いた清水に脚を突込むのは、夏でも長くは居られないものだ、それをジットしてゐなくつちやアならない、僕は畫かきの爲めにはホントにいつも犠牲になツてゐるンだ。
 僕の主人は、佳い位置が見つかると、何處でも構はず腰を下す、川のふちや海岸などでは、随分危つかしい巖の上なんかに置く、この時は小さな膽はヒヤヒヤ爲通しだ足塲が惡くて少しゴトゴトすると、一本の脚へ石でカイモノをします、コイッが頗る有難くないものでね、外れそうで外れそうで心配で詮方がない。
 

雪の川口村松山忠三筆

 時としては塵溜の上に立つこともある、隨分臭い、近所に犬の糞でもあつては耐らない、主人は僕等より二三尺も上に鼻を持つてゐるんだから、大して感じもしまいがコチラはそうはゆかぬ、犬糞はまだよいが、運が惡いと人間のに出逢ふ、何といふ不行儀の奴だらうと憎らしくなる、少々尾籠なお話でお氣の毒だが、主人の知つてゐる連中にもこの方に澤山經驗のある先生が居る、某といふ大先生は、コレ程愉快なものはないと言つて、族行をすると必ッとやる、その方法は、イツモ傾斜地を選んで、取かゝつてからに一歩一歩上へ登つてゆく、用が濟んで戰場を眺めると、約一丁も連續するといふから恐れる、此他に一人、何處でも構はぬ先生がある、此人ある夜、遅く家に歸る途中で催して來れので、東京市内は麹町、某邸の黒板塀の傍で始めた、スルト石垣と塀の隙間から、犬が首を出してケタヽマシク吠える、サスガの先生も是には大に閉口して、半にして止めたとの事だ。
 こりやァツヒこの頃、中川先生の三脚君から聞いた話だが、何でも去年湯ヶ島へ來た連中のうちで、枯草の中でよろしく御用達があつて、其手も洗はずに、オムスビを摘まんで某先生に渡したら、知らぬが佛で旨い旨いと食べちやつた、 後に露見したが、何分山中のことで水もなかつたからとの、仲裁も出て、無事に相濟んだが、いまだに一っ話になつてゐるそうだ。
 

道頓堀石井柏亭筆

  三
 僕だつて苦しいことばかりぢやァ無い、春先いろいろな草花の咲いてゐる中に置かれて、何とも言へぬ佳い匂ひを嗅いて居る時の心持は別だ、ア、自分は仕合だと、三脚といふものに生れて來た幸幅を神様に御禮申たくなる。秋は秋で、ジツとしてゐるとチ、チ、と蟲が鳴きます、その愛らしい可隣な聲をきくと、天國の音樂はコンなかとつひウツトリしちまう。夏は苦しいには苦しいが、また相當の樂しみもある、キレイな淵に臨んだ巖の上に置かれた時、涼しい風にソヨソヨ吹かれながら、下を流れる水を見てゐると、タトへやうのない澄んだ心持になつちまう、入りかはり立ち代り、流れては瀞み去つてはまた來る美はしい水の面には、たえずさまざまな波紋が描かれて、曲線美の變化ある巧緻を飽く迄見せてくれる、僕はコイッな見てゐると何となく引込まれるやうになつて、若し上に重いお尻が乗つてゐなかつたなら、其儘スーツとのめり込んで仕舞ふかもしれない、そのうへ少し靜かにしてゐると、ヤマメや鮎や鮠なんかが、何處からか出て來て、悠々と水底をさまよつてゐる、ッと出て來たかと思ふと、またッと引込む奴も居る、五尾六尾連だつて、水の流れに逆らひながら徐かに川上ヘゆくのもある、こんな時にいつ迄も迄も見てゐて飽きるといふことがない、主人の寫生の冀くば長かれと祈るのはこの時ばかりだ。冬の日、凩ふく夕や雪ふる旦に引張り出されるは、辛いには相違ないが、そんな時は主人も苦しいと見えて、偶さかではあり時間も長かアない、大テイは砂暖かき東海の濵か、日だまりのポカポカしてゐる崖の下なんかだから、毎日ストーヴの傍に引こもつてゐるよりは却つて氣が晴れて可い。

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