寄書 スケツチ箱と三脚の御伴か(?)

栗本生
『みづゑ』第六十 P.22
明治43年3月3日

 余は昨年十二月二十七日當地を出發して日本へ皈省した、余は三十七年渡韓以來今度の皈省にて丁度四度だか、今度ほど愉快な旅行をしたことはない、聯絡船が門司につくともう何とも言はれぬ感じがする、今までに單に日本を見ると★しいばかりであつたが、今度は翠り滴たる森林コバルト色の遠山などは、恰かも一幅の畫を見るが如き快感を覺えた。
 門司から汽車に乗つて福岡に向ふ、線路の兩側にはまたプーカースグリン色の青菜が畑に殘つて居る、草葺の家屋は竹籔或は雜林に圍繞せられて宛然スケツチの好位置を示して居る、朝鮮では斯の樣な籔や森林などは無論見ることが出來ない、瀇漠たる原野か赤黒色をしたる禿山ばかりで、見ると悲觀しても快感は起らぬ、松の綠色でも朝鮮の松は地勢と氣候の關係かも知らぬが何となく濁つて居る、日本のは清らかだ、ヤハリ朝鮮の風物は亡國的である。
 十二月三十一日に、友と打つれて宿を出て、箱崎の海岸から名島の遠景をスケツチした、元旦の日は同じ場所から暴模樣の激浪を試みかが皆物にならなかつた、兎に角、日本の風物は今更ながら清らかな好畫題だと思ふた、韓國とは空の色まで違ふ、日本のは常に空などは暖色を帯びて居るが、こちらのは寒色を帯びて居る、日本に衣食することが出來たなら、常にコンな好き自然、清らかな風景に親しむこと出來て、少しは上手になるだろうと思ふと、朝鮮に衣食せねばならぬ我身の不甲斐なさが自覺されて何となく淋しく之を感ずる、福岡滞在中に、毎日雨か雪か風かで、天氣がわるく出かけられもせず、宿の二階からスケツチブツクを開いて、鉛筆で通行の人などを試みて居つた、佐賀武雄大分などへも旅行したが要事のみをして飛脚的であつたのでの、スケツチの遑はなかつたが、スケツチ箱と三脚とは無二の道伴で始終身邊を離さなかつた。一月十九日、豫定より二日後れて無事に日本から歸えつて來た、停軍場につくと三人の友と飼犬に迎えられた、手荷物は皆友達に渡したが、三脚とスケツチ箱丈けは自分で持つて我家へ歸つた。(終)

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