春鳥畫談
大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ
汀鴎
『みづゑ』第六十一
明治43年4月3日
大膽にして細心なれ
有樂座の東西名人會に往つた。出席名人連の技藝は敬服すべきものであつた、舞臺の上に假屋を設け、金襖やら衝立やら、装飾も立派で、太夫もかゝる處に居て演じてこそ、自算心も起らう張合も出やう、誠に結搆なことであるが、演者の背後の金襖の大きな曳手の取附けが、上下に二寸程も狂つてゐた、表面長押の釘隠しは二つばかり取れてゐた。
曾て京の祇園で都踊を見た。舞子の美しいは勿論の事、背景もまた美事であつて観者を恍惚たらしめた、やがて一群の舞妓が表面の階段を登つてゆく時、不圖見ると、何れも其足袋の裏は眞黒であつたので、切角のイリユージヨンは忽ち破られた。襖の曳手の狂ひや、釘隠しの破損、足袋の裏の汚れなどは實に些細な芝であらう、藝術に醉ふ多くの人には恐らく氣もつくまい、乍併、世には比較的冷やかな態度を以て藝術に對する人も少なくはない、深甚なる注意は、繪の上に於ても殊に大切である、一の斑貼もよくその講の死命を制することがある、美しければ美しい調和、穢なければ穢なく調和してゐなけれはいけぬ、藝術家に宜しく大膽なれ、しかも同時に細心なれ。
ほど
『あの方は程がいゝ』とは一部の社會でよく言ふごとだ、『程』とは中庸をさすので『程のいゝ』といふことは繪の上にも肝要だ。近頃は、モツト突込んで強く描けの、深刻の印象がなくてはいけぬの、辛辣であれのといふ註文もないではないが、それは別間題として、この『程』といふことを無視した出來損ひの繪を見ることが少なくはない。『描き足らない』といふ繪は、『描き過ぎた』といふ縛と共に『程』のよくないことだ。『程』のいゝ繪は、いつ見て竜氣持がよい。展賢會場などでは、時に或は見世物の看板のやうな強烈な総に蹴落されるかも知れないが、それは一時の事だ。
專門家と素人
專門家は畫面の要點に注意して骨を折る。素人は不必要の處を一生懸命にやつて、要點は忘れてゐる。
專門家はパレットの上の十色の繪具を百千万にも變化させて使ふ。素人は十色の繪具を使つて、僅かに二三の異つた色を出す。專門家は細部を捨てゝ置いて先づ大體に注意する。素人は一部分に苦心して大體を忘れてゐる。
專門家は頭で繪をかく。素人は手で繪をかく。