寄書 去りし冬の日

津川清平
『みづゑ』第六十一
明治43年4月3日

 「あつちの山は月が照つて、こつちの山は日が照らん、照り照り坊主に言ふてやろ」といふ聲が寒い冬の日に横路ですることがある。私はそれを聞くと如何にも長閑な氣がする。さうして裏の山を眺めると、山の背を雲の影が走つて居て、インヂゴー色の空に白雲が飛むで行く。そんな時の山は色が脱け出たやうで、面白くないが、土埃りを上げる田舎路の景は、色が多くて、常なら暗く見える汚れた壁や農家の屋根が、見變るほど美しくなつて居る。後の森などが明かるい色の前景を一層明かるく見せて、紫の枯木がきびきびした影を地に落して居る。忘れた様に冷い風が止むと、暖い光りがスケツチする肩をほつこり暖めて、「小春日和」と眩く。高い水車の樋には、白いツラヽが光つて居る、農家の子供が騒がしく集つて取つて居る。細い路傍の枯草にも暖い影が見える。
 霧の多い朝雨戸を開けると、コバルト色に包まれて居る。それが日光で散つてしまつた後も、やはり陰の處々に残つて居て、冬の朝といふ感じがして居る。
 冬の雨は麗はしい。田舎路の草がびしよびしよと黄色く煙つて、エメラルドの大根畑、紫色の農家、それが皆雨に濕れて光澤が美しく出て居る。向ふの山は暗い紫を一面にかぶつて居る。
 曇つた日の松林は高尚な色になつて居る。重い紫の多い陰が、暗い緑と調和して、なかなか一寸したスケツチには畫けぬ。その松林の前に白い枯木が、ホワイトで抜いた様によろよろと出て居ることもある。遠い東の山が夕日に映じた時は、如何にも冬の崇高な姿を感じる。
 總て冬の復雑な色彩は、春夏秋の様に日向には求められない。暖い色。それは或は得られないことは無いが、變化の多い色は陰及び影でなければ見られない。さうしてそれがより多く赤味を帯びた紫を含むで居る。

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