美術談叢 キレーナ畫キタナイ畫

石川欽一郎イシカワキンイチロウ(1871-1945) 作者一覧へ

石川欽一郎
『みづゑ』第六十二
明治43年5月3日

 畫は綺麗にかくのが良いか。又キタナイ畫でも差支へないものかとの疑問は能く研究家から聞くことなるが。之が返答は誠に六かしい。綺麗な畫にも種々あり。キタナイ畫にも種々ある。輸出向水彩畫に見る如き素入受一方と云ふ綺麗なのもあれば。又其反對に。黒人筋丈には向くが素人には一向面白くないため。毎も展覽會では賣れた例なしと云ふキタナイ畫もある。そこで私は此キレイ。キタナイの問題は。研究家としては毫も念頭に浮べないでよいものであると考へるのです。キレイに畫いて觀衆の注意を引かんなど云ふ野心ありての作品ならば。其考案が既に最初から非美術家的なるが故に。此の如き作品は高潔の趣を決かざるを得ないことゝなるも不思儀はない。畫に俗氣があると云ふは此處のことで。上手な畫にも俗臭あるあり。下手な畫にも高尚なるがある如く。キレイナ畫必ずしも良からず。キタナイ畫必ずしも斥く可からず。例へば和歌の先生が敎ゆる處は。何んでも思ふ通りを素直に紛飾ぜずして述べたるが歌として最も良しとて。古來名歌にも其例尠なからざることを克く談し聞かさるゝとの事なり。私は歌の方は一向盲目なるが。畫の方から考へて之は成程と思ふなり。畫家が我感興により其儘を現はしたる作品は。誠に自然に出でたるものにして。配色筆勢。一見愚なるが如くにして反て敏なるものあるは。研究家諸君の夙に經驗されたる處と信ずる次第なるが。此の如き作品に封しては。綺麗キタナイの迂評を挿むべき餘地なく。凡て現はれたる通りの其儘にて人を樂ましむうものなり。之が研究家の目差すべき點にして。要するに作畫の動機が既に鄙野ならば。如何にキレイ上手なりとも俗氣耐へ難かるべく。若し又キレイ上手なるが上に畫家の心氣高潔なる作品ならんには。美は彌々美にして麗倍々麗ならんこと。朝日に匂ふ山櫻の如く其美は愛すべく其品は侵す可からざるものあらん。
  元來畫と云ふものは人が見て樂しむものなる故。キレイなるが本當にて。強いてキタナイ畫をかくにも當らざることながら。キレイな畫は惡るくすると俗に流れたがるものなれば。キタナイ方が先つ高尚らしく見ゆるとは云はるゝなり。併し之は姑息なる消極的の考へにして。無論一般に通用するものには非らず。蓋し畫に限らず。凡そ人世の心がけとしても、自然の儘なるが最上の美にして。紛飾せる技巧の美は。其實は大の醜なること偽りなき處なれば。研究家諸君は只此心得を以て。平氣に我本領の自然を發輝することを專一と爲されなば。綺麗な畫の出來ることもあらん。キタナイ畫の出來ることもあるべし。そんな事には無頓着に。唯高潔なる心氣を以て。上手になることのみを心がけらるべし。」

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